Unityのアセットを一つ買うかどうかで半日悩んでる。


金が欲しいぜ。

可能性の錯誤。


嫉妬には「俺だってアイツのようになれていたはずなのに」というお約束のような思考があるのだけれども、この時点で既に自分の可能性を見誤っている人が多いと思う。まず「アイツ」とかいう奴と同じように振る舞っても、同じような結果を得られるとは限らない。スポーツなどは特に顕著だ。全く同じように訓練したって差が出てしまう。就職やらの採用にしたって見た目以外のスペックが全て同じであれば、見た目の良い方が選ばれる。ルッキズムは言葉に表さなくとも存在しているし、存在し続ける。だから、同じように振る舞ったとて差は付く。しかし、大抵の場合において「及ばなかった奴」は「及んだ奴」と同じように振る舞ってすらいない。やることをやっていない奴の僻みというのは、万馬券を当てた奴に向かって「俺だって買っていれば当たってた」とほざくようなものだ。そのような輩は競馬で一山当てる際に最も重要な「馬券を買う」というアクションをとらなかったことを、ちょっとした誤差であるかのように言う。言うまでもなく、それは誤差などではない。最も重要なことをしていないのだから、はなっから及ぶわけがない。「自分にだってやれたはず」という考えは、無為を過小に見積もりすぎている。それを小さな違いと見做すような奴は、これまでも、これからも、及ばないと思う。ゲームで喩えるならば、全く同じステータスの持ち主でも、魔王を倒しに行く方が勇者で、そうでない方はモブになるってことだよ。この僕にしたって幼少期からピアノを学んでいればショパンコンクールの1位を取れていたはずだけど、ピアノに触れずに育っちゃったよ。惜しいね。

もういっこ書いとこうか。「その気になりさえすればできる」という考えも思い込みであることが多いと思う。強盗であれ通り魔であれ未遂となる事件が多くあるように、その気になってみたところで上手くいかないことはある。僕も十代の頃に一度だけイジメっ子を殺そうとして失敗したよ。こちらが殺す気になったところで、相手が弱くなるわけじゃないからね。せいぜい不意を突ける程度で、そこを外すと普段と同じようにフィジカルの格差でやられてしまう。一世一代の勝負に出るには、入念な準備とリハーサルとイメトレが要る。普通の人が精神論だけでどうこうできるもんじゃないと思うよ。僕の場合は失敗して良かったんだけどね。上手くいってたら前科者だから。

RPGは難しい。


趣味でD&Dやらドラクエやらを参考にRPGのシステムを作っているのだけれど、想像していたよりもパズルとして巨大でやり甲斐が凄い。能力の扱いを複雑にするほど非直感的になり爽快感も薄れるが、直感と快感を重視すると今度は細部が大味になってしまう。何かに使う予定もないけど、しばらくはこれをやってると思う。

この画像ではd20を使ってるけど、CRPGでd20を使う理由が無かったから今はd100を使ってる。

最初はフリーシナリオのゲームを成立させる方法を考えていたのだけれど、あらゆる状況に対応できる(設定ではなくシステム的な意味での)キャラクター構築が全てに優先するという結論に至って、オーソドックスのど真ん中にあるようなRPGのルールを作り始めちゃってる次第。パラメーターを固めなければイベントのトリガを策定できないしNPCも動かせないからね。ただ、もうじき出ると言われる「RPG Maker Unite」の拡張性が優れていた場合は、僕がやってることの半分ぐらいは必要なくなりそうな気がする。

「Low Magic Age」が大きく進化してくれたら。あるいは「Elona」が発展してくれたら。もしくはアートディンクが再び「ルナティックドーン」をやる気になってくれたり、コエテクが「ジルオール」を再始動してくれるというのであれば、僕はこんなことを考えずに遊んでいられるのにな。なお、アートディンクとコエテクには期待してない。仮に実現したとしても超高確率でクソゲーを作ると思う(理由:その手のゲームは偏執的な変態が商売を横に置いて手間を掛けないと作れないから)。

僕の中には狂人がいる。


幼い頃は狂人を前面に出して暮らしていたのだけれども、10歳で死にたいと訴えるガキに対応できる大人などいなかった。そうしているうちに、誰も自分の状況を救えないことや、周囲を酷く困らせる結果にしかならないことを理解した。だから、表現を抑えた。何も良くはなっていないのだけれども、表に出しさえしなければ周りが困ることはない。その生き方は、おっさんになった今も変わっていない。本心を言葉にしようとすると生き死にの話をしてしまいそうになるが、僕は長年の経験から、その手の話題が聞き手のギアを切り替えてしまうことを知っている。それはもう、とても分かりやすく変わるものだから、自分に対し「あ、コイツはヤベえ奴だ」とレッテルが貼られる瞬間が分かる。その手のコミュニケーションの失敗を十代の頃に散々やらかしたおかげで、二十歳になる前には言葉を発するよりも先にリアクションを想像できるようになっていた。僕が平熱で語る生き死にの話が、普通の人には重たいらしい。ここで使った「平熱」という言葉には「素面の僕が、日常的に、当たり前のように考えていること」という意味を込めているのだけれども、そこが全く理解されない。まるで重大な告白でもされているかのように受け止められてしまう。ときには「まさに、これから命を絶つ気ではないか」と思われてしまったりもする。小学生の頃から死にたがっていた人間が、この期に及んで死んだりなんかせんのにな(逆にね)。僕は既に、自分を生かすための理論を持っているし、生きる理由も分かっているし、死ねない事情も抱えてる。目の前に死にたいという人がいるなら、説得を試みさえもする。自分で言うのも何だけど、本心を語りさえしなければ、極めて真っ当な人なのさ。願わくば、誰からも心配されることなく「死にたい」と言いたいのだけど、難しそうだ。誰もが希死に関する話を腫れ物のように思ってしまってる。もしかすると皆の心の中にも多かれ少なかれ希死念慮はあって、そこから目を背けたがっているからなのかも知れないね。目を背けることができるのであれば、そうするに越したことはない。僕はそんな人たちの邪魔をしたくないから、やはり、大っぴらには語らない方が良いのだと思う。たぶん、これが分別ってやつなんだ。分別を持たない頃には、壊れた心を隠そうともせず裸で書き殴り続けて、人様に迷惑を掛けていたけど、それが許されるのは十代までだよ。成人してからもそれを続けると、単に痛いというだけじゃなく、社会的にも生きていけないからな。大人というものになったなら、なけなしの社会性で誤魔化しながら、なんとかやっていくしかないのだ。

という文章を、割と気を付けながら書いたのだけど、客観的に評価をするとこんなものでも「危うい人」の分類に入ってしまうと思う。だから、これまでの僕の判断基準のもとではブログに載せることもなかったのだけど、最近になってようやく「ほぼ誰も読んでいない」という判断ができたのでフィルターを緩めることにした。ある人が「著名でもない人の自分語りは無価値」と言っていたけれど、無価値と見做されるようになってようやく書けるようになることもあるんだよ。

あまり人を見下したくないのだけれども、どうしても見下してしまうことがある。


誰もが、特定の事柄に関しては他の誰よりも詳しかったりする。たとえば、僕が飼っていた猫について、僕よりも詳しい人間など居ないだろう。ゆえに、僕の猫が世間様から何らかの誤解を受けることがあれば、直ちに誤解だと分かってしまう。ここでは例として猫を挙げているが、僕は他にもそこそこの数の出来事には誰よりも詳しい。世間様は僕の猫など少しも気にしないだろうが、僕が良く知る事物の中には世間に語られるものもある。だから、出鱈目を言う人が分かってしまう。尤もらしく嘘を吐く人だとか、それを信じる阿呆を見抜けてしまう。人を見下したくないというのは本当だけど、一分の疑問も差し挟まずに間違ったものを信じ込んでしまうような手合いなんて、どうしたって見下してしまうんだよ。お陰様で、自分でも呆れるほどの大勢を見下すことになってしまった。僕は、疑問を抱かない人を軽蔑する。人の心の中には善も悪も同じように巣くっているのに、清濁を併せた理解に努めることもなく「白か黒か」と単純化したがる奴は頭が悪いと思う。分からないものを分からないと認めず、その狭い見識の裡にある有り合わせの材料のみを使って全てを語ろうとする奴も頭が悪いと思う。方眼紙の点と点を繋いでいけばどのような絵でも描けるだろうが、そうやって描いたものを掲げて「これが真実である」と宣う奴も頭が悪いと思う。共通する要素は「安直」だ。単純さを求め、単純化に励み、たとえそこに誤りがあっても単純であれば受け入れてしまう。まるで、ドロドロになるまで咀嚼しなければ物事を飲み込むことができない乳児のような大人ばかりだ。そんな連中を見るのがしんどくて、僕はあまりネットをやらなくなった。僕よりも無邪気な人たちは馬鹿を踊らせて遊んでいるけど、僕はそこまで吹っ切れないよ。他人からどう思われるかは知らんけど、僕は、僕なりに善良だからね。

つまらん。


何かのためにってわけでもなく、ただ生きるために生きるのはつまらなすぎる。さっきなんか、幽霊に会いたいと思ってたんだぜ。遭遇できれば絶対に楽しいからな。ホラーは好きなのに、毛ほども信じられない。それはまるでサンタクロースと同じようなもので、信じたいのに信じられない。どうしてうちには来てくれないのか? 良い子にしていなかったから? 霊そのものを目撃できなくても、せめて霊的な何かを確信させてくれさえすればいいんだよ。それぐらいの妥協は当たり前にするよ。分別のある大人だからさ。

今日も生きられて良かったと己の代謝を有り難がりながらくたばっていく虫けらのような。


みんなに木偶の坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされない童貞のような。そういう者に、僕はなりたくなかった。願いを持たない人は背伸びをしない。そればかりか言葉を繰ろうともしない。生きるってのは分不相応を求めて足掻くさまのことを言うのだろうにな。願いは叶わなくとも、あるだけで良いのだ。手の届かぬ物を欲しても良いのだ。身の丈など知ったところで良いことはない。「分相応」というラベルが貼られた檻に自分を閉じ込めることになるだけだ。積極的に挫折すればいい。持てる限り失っていけばいい。仕舞いには命まで失うハメになるかも知れんが、何もしないよりは死ぬ方がまだ良い。

……みたいなことを書いてしまったりするから僕は自分さえも信用できないんだよね。こないだまでは「身の丈を知れ」と書いてたもんな。

未来がやってきた。


Link: ChatGPT4 本格RPG「チャット転生 〜 死んだはずの幼馴染が異世界で勇者になっていた件」(体験版)

これがスタンドアロンで動くようになったらゲーム業界は様変わりする。
AIがGMとなりCGまで揃えてしまう未来は、すぐそこまで来ているのかも知れない。

……と思ったけど、調べてみたらスタンドアロンでは到底動きそうになかったよ。
としても、ワークフローは激変するんだろうな。

2023年3月のゲーミング。


【Wo Long】3月3日

体験版をプレイしたが仁王感が凄い。よってイケる。3月の主食はこれかも知れない。

※追記

パリィを主軸とした戦闘は楽しいが、それを除けば全てにおいて仁王2の方が面白いし、なんなら仁王1にも劣る。
ワイルドハーツの不安定さといい、最近のコエテクはちょっと怪しいな。QAが機能していないんじゃないか?

【零 月蝕の仮面】3月9日

気にはなるがスルーするつもり。

※追記

あんまり売れてないらしい。まあ、そうだよな。大昔、任天堂のアンケートに「売上を度外視してもゲームのジャンルに幅を持たせることがプラットフォーマーの役目ではないか」みたいなことを書くのに併せて零を推したような記憶がある。その意見が通じたのか偶々なのかは知らないけれど、任天堂は零を支えてくれた。たとえ売れなくてもこういうジャンルをフォローできるかどうかってあたりに、ファーストの器量が表れるのだと思う。バグに呆れて見限った僕が言うのも何だけど、続いて欲しいとは思ってる。

【ベヨネッタオリジンズ】3月24日

気にはなるがスルーするつもり。

【バイオRE4】3月24日

気にはなる。もしかしたらやるかも知れない。

【ラスアスPC】3月29日

気にはなる。スタンスは決めてない。

つぶやき。


一日中Twitterをやっている人なんて勉強をしているわけがないのでどんなに賢者ぶろうとも頭が悪いと思います。