おちんちんを見せちゃいけないって誰が決めたのさ。おちんちんを見ると不快になると言う人は、お風呂に入るたびに不快になるの? それは後天的に刷り込まれた価値観に過ぎないのに、どうして生得の法みたいに言っちゃえるのさ。僕が残念に思うのは、それを疑問に思わない人が多いことだよ。何を教えても「どうして?」と口にする子供たちの方がずっと賢いと思う。誰にだって、そういう時期はあったはずなのに、どうして疑うことを諦めてしまったんだろうね。どういうわけか、人って大人になると「良くないものは良くありません」みたいなトートロジーを喚く機械になっちゃうんだよ。僕が通っていた小学校の先生も、「どうしてセックスしてはいけないのですか?」という質問に対して「駄目なものは駄目だから」と答えていたよ。大人から「良くないものは良くない」と教わった子供たちが、理由を知ることもなくそれを受け継いでいくさまは、滑稽だし、この上なく頭が悪いと思う。少なくとも僕は、子供がセックスをしてはいけない理由やら、人を殺してはいけない理由を説明できる大人になれたけど、疑うことを諦めてしまった人たちは、僕の学校の先生のように「駄目なものは駄目」と言ってしまうのだろうね。これは言うなれば、馬鹿の再生産だよ。僕はそんな風に思うから、下ネタを嫌う人に遭遇するたび、内心で頭の悪さを疑ってしまう。過去に性被害を受けたなどの理由があるのであれば理解できるんだけど、多くは理由がないからね。
達観の裏側。
僕はたびたび悟ったかのように「人生なんて、こんなもんだよね」みたいなことを書いてしまうんだけど、これは自分でも格好つけていると思う。内心では「うわぁああああん! たいして良いこともないままおじいちゃんになっちゃう! どうすればいいの?!」みたいなことを思っていても、気づけば「ま、これが人生だよ。こんなものだよ」と書いている。そればかりか「元からダメな人間だったわけではなく、選択的にダメな人間を装っていますよ」とまで書いていたりする。そのような欺瞞に読み手を付き合わせるのは申し訳ないので、この際だから白状しておくが、それらのテキストは読み手ではなく自分に向けて書いている。自分に向けて“受け入れがたい現実を承服させるための説得”をしているさまを、共有しているに過ぎない。もとより、このブログのエントリーの大部分は日記からの切り抜きなのだから、そもそも私的なものなのだ。ブログに書いてあることは「本心へ向けた説得」であって、本心ではない。また、長きにわたり説得を続けているにも関わらず、僕は今に至るまでこの現実を少しも受け入れることができていない。ゆえに、本心であるわけがない。
時代についていけてない。
歯医者での会計時に「診察券がLINEに変わります」と言われたんだけど意味が分からなかった。なんでも、LINEアプリの機能を使ったデジタル診察券というものがあるらしい。しかし僕はLINEを使っていないので何をどうすれば良いかさっぱり分からなかった。仕方がないのでパソコン教室に通う老人のように振る舞って、手取り足取り登録の方法を教えてもらった……のだが、家に戻って確認してみると、物の見事に登録に失敗していた。こんな僕の肩書きがITエンジニアだってんだから凄いだろ? 後期高齢者に片足を突っ込んでいるうちの親でさえも普通にLINEを使っているというのに、インターネッツの最前線で仕事をしてきたはずの僕がこの有様だよ。もちろん、理由はある。SNSをやらない理由と同じだ。僕にとってどうでもいい情報をプッシュして欲しくない。そんなものに時間を費やしたくないし、生活のリズムを乱されたくない。とは言え、使わないというだけならば兎も角、使い方すら知らないとなると問題が生じることもあるようだから、最低限の学習はしようと思った。
個人がLINEに依存するのは勝手にやってろと思うんだけど、社会が私企業に依存するのは不健全だしグロテスクに思える。Googleやら旧TwitterやらFacebookへの依存にしたって同じだ。利益追求と公共性を秤に掛けた時に利益追求を選択するのが私企業というものなのに、そこに生活を託すってのはさすがに無邪気すぎないか? 企業の方針が変わった時にどれほどの混乱が生じるかというのは、Xの運用を見ても分かるだろうよ。Googleにしたって、上手く行かないと見るや否やサービスを無くする。Googleの特定サービスに依存して作られた業務システムが、Googleの方針変更によって使えなくなったなんてのもザラに聞く話だ。生活の全てを特定のプラットフォームに委ねた場合はアカウントが生命線になるのだけれども、そのアカウントを生かすも殺すも企業次第じゃないか。生殺与奪の決定権を私企業なんかに託していいのか? まあ、いいんだろうね。大抵の人が、それを受け入れている。
そもそもの話になるが、みんなインターネットを信用しすぎなんだよな。総務省が対策を急いでいるけれど、現状のインフラでデジタル化を完遂させると、簡単に壊せる国が出来ちゃうよ。こんな状態で首都圏に天変地異でもあろうものなら、あるいは戦争なんかしようものなら、たちまち機能停止に陥ってしまうよ。
今頃になってソフト絶交に気づく。
昔は仲が良かった人が、ある時期から余所余所しくなって、今では没交渉となっている。忙しいのかなと思っていたのだけれども、どうやら違う……と、睡眠中に気づいた。
夢の中で僕はよう知らん女との昼食を終えて会計をしていた。その女と僕との関係性は分からない。たかだかランチで10万近い金額を請求されたのだが当然持ち合わせなどなく、仕方がないからカードで支払おうとしたところ、カード会社の承認がなかなか下りない。承認が通るわけでも拒絶されるわけでもなく、ただ延々と待たされる。よう知らん女は最初こそ割り勘に応じる素振りを見せていたものの、僕がカードでの支払いを申し出ると、どういうわけか財布をバッグに仕舞った。そもそも店を決めて注文をしたのはそいつだ。昼飯ごときに10万もの金を使うことを何とも思わないような人間とは今後関わり合いになりたくないと思った瞬間に、何が引き金となったのか「あれ、もしかして僕って絶交されてる?」と気づいた。
これを読んだ人には夢と気付きとの関連を理解できないだろうけど、僕にも意味が分からない。
おそらくは「関わり合いになりたくない」という思考からのリンクなのだろう。
そこで僕は夢を打ち切って、絶交について考え始めた。絶交されたということは、つまり、僕が何かをやらかしたということだ。一体何をやらかしたんだ? 思い当たる節が多すぎる。大きな出来事があったわけではなく、大目に見てもらっていた失点が積もり積もって限界に達した結果なのだと思う。共感できないこともない。僕にしたって、僕みたいな奴とは関わり合いになりたくないからな。かと言って正面から絶交すると、それはそれで面倒なことになりそうだから、フェードアウトを選択するのも賢明だ。やるせない気持ちはあるけれど、絶交という判断を支持せざるを得ない。些かの悲しみを抱えることにはなるのだけれども、自業自得なのだからしょうがない。
はっきりと自覚しているが、僕は底意地が悪い。そればかりか、友達たちも底意地が悪い。底意地の悪さを共通項として通じ合っている節さえもある。底意地の悪い人間は、底意地の悪さを補って余り有るメリットを提供することによって世間様と折り合うものなのだけれど、僕はそれを提供していない。損となる関係性を維持させうるのは、血縁関係や、婚姻関係や、親友といった“濃いつながり”に限られる。友達と親友の違いは、信頼の有無だ(私見ではなく、辞書にそうある)。友達関係は信頼を必要としない。信頼を必要としない関係性は利害によって維持されるのだから、メリットを提供できない奴に友達など作れるわけがない。
……とまで書いて、はたと気づいた。この件で僕がショックを受けた本当の理由は、あいつを親友だと思っていたからではないかと。もとより親友ではなかったか、あるいは、信頼を損なってしまったか。いくら底意地が悪いとは言え義理堅さには自信があるんだけどな。一体、僕は何をやらかしたんだ? 無自覚ってのが一番ヤバいよな。
オリエント工業が事業終了とのことで。
人形を持つことを真剣に検討し始めておりましたから、残念なお知らせでございます。
僕みたいな人は人形を持つことで幸せになれる気がするんですよね。
まあ、一言に人形と言ってもラブドールを選ぶとは限らないのですが。
ラブドールには消耗品的な側面がありますから、長く付き合うには障りがあるのではないかと思います。
セックスしたい。
一片の婉曲もない直球のタイトルですが、今の気持ちを嘘偽りなく表現するのであれば、こう書いとくしかねーよなと。ええ、ええ、したいんですよ。セックスを。性欲を持て余しています。もちろん、年がら年中こんな感じではありません。普段はシコれば収まる程度にしか思わないのですが、たまに大波が来るですよ。そんなときはどんなにシコっても、欲求が抜けてくれません。四六時中ムラムラしています。しかし、どうしようもないのです。そして、この「どうしようもない」という言葉が今回の本題になります。セックスしたいという表明だけで終わらせるわけにはいきませんからね。
まずは前提としてこれを書きますが、僕はセックスに至るための段取りに困っているわけではありません。これは僕に限った話でもなく、大抵の人は、なりふり構わなければセックスできます。お金を使うも良し、マッチングアプリを使うも良し、土下座をするも良しですよ。単にヤることが目的ならば、様々な方法があるのです。
僕がセックスに至れないのは、偏に自己評価の低さゆえです。僕が女性ならば、僕みたいな奴とはヤリたくありません。お金を払ってさせて頂くとしても、欲求よりも申し訳なさが勝って、その気になれないと思います。こんなメンタリティーの人間にはセックスなんか出来るわけがないのですよ。例外として考えられるのは“モテた場合”ぐらいなんですが、若い時分でさえ厳しかったのですから、今となっては尚更に、そんなものは望むべくもありません。
というわけで、どうしようもないのです。
セックスに限らず、この世界には「したいのに、できないもの」や「欲しいのに、手に入らないもの」が多すぎるように思うんですよ。そんなものはいっそのこと、はなっから存在しない方が生きやすかろうと思うんですけどね。手の届かない事物など、惨めな気持ちにさせてくれるばかりで、クソの役にも立ちませんもの。そうした事物の存在から無理矢理にでも意味を見出すとしたら、“僕を惨めな気持ちにさせるためにある”といった感じになるんでしょうかね。なんてクソッタレな世界なんでしょう。すぐにでも滅んでしまえばいいのに。
世界に向けて悪口を発信するから訴えられたりするのであって、悪口を言えない世の中になってるわけじゃないと思うよ。
ツールが便利になりすぎたせいか、Xのようなサービスを使いながらも不特定多数に向けて情報を発信しているという自覚を持てない人がおるらしいんよな。その手の輩のリスクマネジメントに対する意識の希薄さは、バイトテロ動画をアップして炎上するアホと大差ないんよ。匿名掲示板がログを取らなかったのも昔の話。今の時代に身元を隠すには、ちょっとした工夫が必要になるんだけど、そのちょっとした工夫が分からないのであれば、みだりに悪口なんか言わん方がいいよ。当人に聞かせられない悪口は陰口に留めるのがマナーってもんだよ。陰口さえも言うべきではないってのが本当のマナーなんだけど、みんなにそれを求めるってのは大衆の倫理観を高く見積もりすぎてる。ネット上では正論が“胸を張って言える悪口”として用いられているところがあって、ベクトルの向きこそ違っても同じだけのカロリーが使われてると思うんだよね。「死ね」なんて言葉を使わなくても、正論を使えば社会的に人を殺せるし、その確度の高さから達成感を得やすいうえに、良いことをしたと自分を褒めてあげられる。正論を批難するつもりはないけど、それを用いる動機には邪悪さがある。誰かを土下座させても明くる日にはもう別の誰かに怒ってる。怒りがエンタメ化している。快楽を得ることが目的であるなら、ツールとしての正論の性質は悪口と大差ないと思うんだよね。僕から見ると人の性質なんて、昔から何も変わっとらんのよ。
2024年8月のゲーミング。
【Destiny 2】
オンラインを感じさせない良くできたシューター。底なし沼のようなトレハン要素もある。僕は結構好きなんだけど、古いコンテンツを切り捨てていく運営スタイルのせいで新規プレイヤーはストーリーを把握できないだろうし、エンドコンテンツをプレイするにはお友達という非売品が必要になるので、これから手を出すって人にはお勧めできない。
あたまのよいひと。
これは経験則なんだけど、頭の良い人はゲームをプレイするのが上手い。ジャンルを問わず、どんなゲームをやっても上手い。僕よりも広く画面を見ていて、僕よりも早く変化に気づいて、僕よりも速く対応している人を見ると、「この人には太刀打ちできない」と思う。飛び抜けて頭の良い人にもなると、僕のようなヘタクソに不快な思いをさせないように勝敗の調整までしてくれる。勝ちすぎないように手加減をしたり、たまには負けてくれたりもする。そうした調整までを含めてゲームとして楽しんでしまえるらしい。実の知り合いを見ていても、頭の良い人はやはりゲームが上手い。普段ゲームをやらないという人でも、やらせてみると、やっぱり上手い。このような経験則を持つ僕は、一緒にゲームをしたことがあるという程度の関係性の人を評して「頭が良い」と言ってしまえる。頭の良い人は、ゲームに限らず何であろうが、僕よりも上手くやるのだと思う。ゲームに負けたというだけで万事に対し心が折れかけたこともあるけれど、おかげさまで身の程を知ることができた。頭の良い人と遊ぶのは楽しいんだけど、僕と遊んでくれていた人の多くは家庭を持ったり社会的な地位を得たりしてゲームなんかやっていられなくなった。最後まで遊んでくれていた人も、数年前からやらなくなった。本当に頭の良い人は、ゲームを辞める見極めができるらしい。その一方で、僕は頭が悪いから、良い歳になってもゲームを辞められずにいる。