Category: めんどくさい系

お金を使わずに生きたい。


日本人は貧しくなっているそうで、僕の生活も安定していません。かつては「ゲームには幾らでも使う」と言っていた僕ですが最近では慎重を期しております。消費に向けられるお金が減っている以上は何かを切り捨てなければならないのは当然ですから、若者たちは車やらアルコールやらタバコやら果てには子作りにも見切りを付けてしまいました。今や我々は何かを不要とする理由を見つけることに慣れてしまっており、財布の紐を緩められません。「経済を回すために金を使え」と言う人はいますが、大抵の人は将来の安定が担保されなければお金を使いたがりません。「来月の食費には困るかも知れないけど今月は散財しろ」と言われて従う人などおらんのですよ。消費支出を上向かせるには、安定的に収入を増やすか、消費税を撤廃するかしかありません。他の手なんか存在しないんですよ。この国を率いる賢人たちは、このシンプルな結論を避けて通るためにあらゆる手を講じて失敗しています。10万円を配ったって無駄なんですよ。今月10万貰えても、来月は貰えないんですから。今後、万が一景気が良くなったとしても、それが消費性向に現れるまでには数年を要すると思います。お財布の紐を緩めるためには「この好況は続くに違いない」という幻想がどうしても必要になりますから、今の状況を変えるには夢を語る人の出現を待たなければならないと思います。

なりたいものになればいい。


肌の色で差別されない世界は確かに素晴らしいと思うんだけど、僕が理想とするのはその先にある「好きな色になれる世界」なんだよね。日本にも黒人に憧れて黒人になろうとする人っているじゃん。みんな、あんな感じでいいと思うんだよ。「白人の真似をするな」だの「黒人の文化をパクるな」だのと生得の権利を主張する奴は多いけど、そいつらは一人の例外もなく差別的だと思ってる。文化の担い手に遺伝的な条件を付すなんて、差別以外の何でもないでしょ? 肌の色に限らず、ジェンダーだってそう。みんな、なりたい性になればいい。昔は難しかったろうけど今の技術ならばある程度のことは可能だし、将来はもっと良くなると思う。人種だろうとジェンダーだろうと、生得の垣根を「受け入れるべきもの」として話をする奴は皆、同じ穴の貉に思える。そもそも、誰も選んでいないじゃないか。「どの人種に生まれるか?」とか「どの性別で生まれるか?」とか「どのような家に生まれるか?」なんて、自己決定権の範疇にはない。「生まれたら、そうなっていた」ってだけだろう? それを無条件に引き受けろなんて、僕の感覚からすりゃ野蛮なんだよな。多くの人は「幸いにも自分は恵まれている」という理由から生得の特典に何の疑問も抱かない。何の苦労もせずに得た特典を当然のように享受しながら、その権利を侵しうるものを虐げる。これが差別の根幹なんだけど、アホ共にはその程度の自覚もないから、奴隷が担ぐ神輿の上に寝そべって鼻クソをほじりながら「差別反対」とか抜かしちゃうんだよ。天真爛漫も度が過ぎると思うね。

※後日「めんどくさい系」に移動します。

【流れで書いたおまけ】

生まれを受け入れろという考え方の極端な例としてカースト制度というのが知られてる。外道によって発明されたとしか思えない狂気のシステムだ。「被差別者を親に持つ者は被差別者として生きなさい。さすれば生まれ変わった時にもう少しマシな身分になれるでしょう」なんて寝言に従う人が何億人もいるんだから控え目に言ってもイカレてる。でも、他のメジャーな宗教だって実のところは大差ない。「真面目に生きれば『死後に』報われる」とほざいてる点では同類だ。言い換えると「この世ではどうにもならんから我慢しろ」となるね。これって奴隷に自らの境遇を受け入れさせるために使用者が用いる類の口上なんだけど、残念ながら多くの人は、どうにもならないクソのような人生を肯定するためにこれを受け入れてしまう。その思想の発明者は死後のことなど少しも知らんというのにね。こうした例からは「かつての宗教家達もこの世で万人を幸福にできるとは考えていなかった」ということが分かる。妥協に次ぐ妥協の果てに「あの世か来世ではきっと幸せになれるよ」と言ってお茶を濁していたのだろうな。このような言葉は「詰んでいる人」にとっては有効な慰めとなりうるから一概に悪いとも言い切れないけれど、奴隷を肯定する方便として用いる奴は邪悪だと思うよ。宗教的な多様性を尊重するにしても、他者を弾圧する思想まで尊重する気には全くなれないね。

※人類の半分以上を敵にまわすような内容なので載せるか迷ったけどまあいいかなって。

いいたいことをいおう。


波風を立てることを恐れる人ばかりですけど、いいんすかねそれで。波風を立てぬまま年老いて死んで肉体と共に想いを焼かれて最初から存在していなかったかのように葬られるのを理想としているならば、それでもいいんでしょうけれど。たしかに、主張には勇気が要りますよ。必ず誰かに嫌われますもの。でも、誰にも嫌われないのと同時に、誰からも意識されないんすよ。存在していないのと同然に振る舞ったところで、空気ぐらいにしかなれないでしょうに。幸いにもこの国では辛うじて言論が自由なのですから、言いたいことを言っていきません? 大抵の主張にアンチはいますよ。なかには「口を閉ざせ」だの「お前には言う権利などない」だの「殺すぞ」だの言ってくる人もいますが、そういう人たちの教養のレベルって人間相手に議論を行えるようなステージに至っていない……というか、おそらく義務教育を受け損なっているので、相手にする必要はないと思います。いちおう書いておきますが、この国では、威力を使って人を黙らせるのも、危害を加えるのも、それを予告するのも違法です。私たちは「意見が対立するなら、話し合いましょう」と子供の頃から教えられているはずですが、実際にそれをやれる人は多くありません。相手の言葉に耳を傾けて聞き入れられる部分があれば折り合っていくのが建設的な議論というものですが、ネットやらテレビやら国会においては、言い負かすことを目的としたゲームをしている人ばかりです。僕自身は「己の誤りや知識の欠落を認め、更新を続ける柔軟性」こそが知の核心だと思っていますし、似たようなことをソクラテスは2000年以上も前から言っている……ということを知っている人は大勢いるはずなのですが、西暦2020年に至っても、それができる人はあまりいないようです。自らを更新することに貪欲な人は、新しい知見の吸収に労を厭いません。常に聞くべき言葉を探しています。知の巨人が如く頭ごなしに他者を否定するような真似などしませんし、声の大きな方の主張が通ってしまう「犬の喧嘩」のような議論もしません。議論には素養が要るのです。そして、その素養を持つ人は限られています。特定の主張が口憚られるものとされたり、口にするという行為自体が責めを負うような社会においては、議論となる以前の段階で主張が潰されることもあります。誰もが文明人ヅラしていますけど、実際のところはその殆どが野蛮人なんじゃないすかね。ともかく、いかなるトピックにおいても議論の相手にするのは「議論の素養を持つ人」に限るべきだと思います。それ以外の人は「大音量でリピートされる動画」のようなものですから、視聴の対象にはなりますが、議論の相手になりません。この切り分けが大事なんですよ。こちらが折れるまで怒鳴り続けるだけの人(支配だけを目的とする人)を相手にするのは不毛です。それはもはや議論とは言いません。おそらく洗脳か何かです。そのような土人を除いていけば、実りある会話のできる相手が見えてくるかと思います。こちらが知的に謙虚であり、かつ、ノイズに捕らわることなく知性ある人の方を向いてさえいれば、いかなるテーマにおいても議論は成り立つと思います。ようするに「アホ共のリアクションを気にするのをやめれば言いたいことを言える」と書いてみたわけです。

こどもをつくろう。


江戸時代に生まれた日本人の総数は2億7千万人と推定されているそうだよ。そのうち僕らが知ってるのは何人ぐらいだろうね。100人も知っていれば多い方じゃないかな。みんなが知ってる江戸時代の人物の数を仮に平均100人とすると、後世に広く名を残せたのは270万人に1人ということになるね。いずれも、何らかの偉業を成し遂げるか、どえらい事件を起こすか、あるいは、たまたま偉い家系に生まれた人たちばかりで、大抵の人は一庶民として死ぬことになるけれど、その庶民たちも子供を作ることにより後世に爪痕を残してる。少なくとも子孫は自分のことを覚えていてくれる可能性が高いし、いつか子孫が著名になった暁にはNHKの「ファミリーヒストリー」あたりで取り上げて貰えるかも知れない……という、可能性の種を蒔いているわけだね。だから、僕は子作りを「次の世代までは確実に残るし、上手くいけば千年後にも影響を与えうる、強力な表現行為」と見做しているんだ。子作りに至る難易度は人によって異なるとしても、270万分の1という倍率に挑むよりは簡単だと思う。子供を作り、育てきることで、凡庸なアーティストよりも強力な影響力を生み出せる。子作りには、そういうメリットがある。まあ、難易度という観点から言うと「死んだ後のことなんてどうでもいい」だとか「バタフライエフェクト的にはメシ食ってクソして屁をこいて寝るだけでも世界を大きく変えられるはず」だとか「いつか終わってしまう世界の前には総てが無意味だ」みたいなことを言っておく方が、子育てよりずっとラクなんだろうけどね。そのように達観できない人が人生に意味を求めるときには、子作りという選択はアリだと思うよ。僕には子供なんて作れそうにないけど、作れないなりに、それぐらいのことは思う。ときおり知人共から送り付けられてくるガキの画像を見るたびに、どこか羨ましく思ってしまうところもある。だから僕はひとり舌打ちをしながら、「これをネタにシコっていいですか?」とコメントして鬱憤を晴らしているんだよ。同じように、料理の画像が送られてきた場合は「立派なウンコに育ちそうですね」と書くし、交際や結婚の報告をされた場合は「どんなセックスしてるんですか」と訊く。これらは人が嫌がることをしている人に対する相応のリアクションだと思うんだけど、どうも連中は手前の幸せアピールを大正義と信じているフシがあるから、だいたいの場合において僕だけが「頭のおかしい人」という扱いを受けてしまう。なんとも不公平な話だね。

人様に誇れるものはなく、頼られることもなく、家庭も持たず、孤独死へと続く道のりには何の障害もありません。


「生きている」というよりは、「死んでない」と書く方が相応しく思えます。そのような状況にある人は、とてもとても沢山いると思うのですが、その人たちは何を思いながらこれからを生きていくんでしょうね。このようなエントリをアップすると心配する人が出てきてしまうためあらかじめ書いておきますが、僕に関して言えば心配は無用です。小学5年生の頃に死にたくなる病気を患って以来、「この衝動はアドバンテージなのだ」と信じて死にたい気持ちと向き合ってきました。なお、これは完全に間違った対処ですから、死にたくなった人は絶対に僕の真似をせず病院に行ってください。僕の境遇は特殊なのです。精神科通いが近所にバレると村八分にされるようなクソ田舎に生まれてしまったがため、気合いで克服することを求められたのですよ。不眠となってからは酒も飲みました(小5で)。親類から郷里の者から現在交友がある者に至るまで皆が口を揃えて「蓮海は頭がおかしい」と言いますが、否定はしません。頭はおかしいはずです。死を睨みながら生きてきたのですから。サイトにしろゲームにしろ何にしろ製作に加わる人は「面白いものをつくりたい」と言いますが、僕の動機は少し違います。僕は「僕を死から遠ざけるもの」が欲しいんですよ。結果として面白いものをつくりたがる人と利害が一致することはありますが、「面白いものをつくりたい」という動機が先にあるわけではありません。かつて僕は色んなことをしてきましたが、全ての根本には「死を遠ざける」という動機があります。死にたいという衝動はあるのに、絶対に死にたくないんですよね。死ねばラクになるというのが信じきれなくて。死んだら無になるという確信が持てたなら、こんなエントリを書くのもやめてすぐにでも死のうと思うんですが、「死後にあるのは無」という考え方さえも信仰の一つに過ぎませんからね。なまじっかコンピューターなんか学んじゃったせいで、シミュレーション仮説(我々の現実はより高次の知的種族によりシミュレートされた仮想の現実であるとする仮説)を捨てきれないんです。もし僕がこの宇宙をデザインするなら、死後の世界を作りますもん。それも、面白半分で。住人のインスタンスを別の舞台で再生するだけの簡単な作業です。要は異世界転生ですよ。異世界転生と言うと皆さんは面白可笑しく活躍できる良い感じの世界を思い浮かべるかも知れませんが、本当の異世界はどうなるんでしょうね。えげつないほどの地獄が用意されている可能性があるとは思えませんか? その場合は困ったことに、この世界でどのような苦境に陥ろうとも、死んだ方がマシとは限らないんですよ。

来世におけるあなたの運命は、あなたが現在のシミュレートされた現世でどう振舞ったかによって決められるかもしれない。 – ニック・ボストロム

「地獄へ堕ちる覚悟ならある」みたいなことを軽率に言っちゃう人もいますが、それは地獄をナメすぎです。もしも死後に10000000000000000年ほど拷問を受けるハメになると知っていたならば、地獄へ堕ちても良いなんてことを思う人はいないはずなんですよ。この話のヤバさがしっくりこないという人は、とりあえず「懲役30日(世にも奇妙な物語)」や「ホワイト・クリスマス(ブラック・ミラー)」でも観てきてください。コンピューターで永遠の業火を生みだすのはとても簡単なことです。「while(1){ hellfire(); }」とでも書けば良いのですから。創造主が僕みたいな奴だった場合、間違いなく地獄は作られます。僕みたいな奴が作る地獄ならばきっと現世の振る舞いを反映する地獄となるのでしょうが、僕よりも酷い奴ならば全ての人を問答無用に叩き落とす地獄を作るかも知れません。もしそれが現世の振る舞いを反映する地獄だった場合は、現世でどのような振る舞いをすれば地獄へ行かずに済むかが問題となりますが、この宇宙は創造主の世界を模している可能性が高いのですから、創造主と我々の倫理観に大きな違いはないと考えて良いと思います。つまり、善行を積めってことっすよ。僕は常々「地獄があれば良いのに」と思っています。地獄に堕ちるべき奴を多く見ているからです。連中は「地獄などない」と言わんばかりに無茶苦茶なことをやっていますから、良識ある創造主様におかれましては何卒あの世に「えげつないほどの地獄」を据え置かれますよう、伏してお願い申しあげたい。

※盆らしいことを書こうとしたらこうなりました。

【以下、おたより】

親類から郷里の者から

まともな親類がいる蓮海さんはまだ恵まれている気がします。
犯罪を無意識に正当化するような家族・親戚ばかりだと目も当てられません。

鬱の人にそういうこと言うと怒られますよ。

「僕を死から遠ざけるもの」が欲しいんですよ。

同じ衝動ではないでしょうが、00年代前半までのエロゲには作り手が何かドロドロした衝動をぶつけたような怪作がちらほらありましたね。エロゲに限らずそういう怪作に会いたいですがなかなかありません。

あの頃の僕は同業者から「おまえがやっているのは日活ロマンポルノだ」と言われていました。僕自身は同意しませんけどね。ただ、「作家性を発揮しやすい場」という点においては共通するところもあるように思いました。令和の時代においても「作家性が発揮されやすい場」にはドロドロとした衝動の渦巻く表現物はあると思います。というわけで、今しがた「なろう」を検索してみたところ僕好みのものは見当たりませんでした。どうやら「なろう」は違うみたいです。いやいや……、759,663作品もあるんだからちゃんと探せばあるのかも知れない。

世界がブサイクに優しくなったとしてもブサイクだと思われるのは変わらないんだよね。


と言っても、ブサイクの話をしたいわけじゃないんだけどね。ブサイクはどうしたってブサイクなのだから、内心でブサイクだと思われてしまうのは仕方がないよ。ブサイクに対し「ブサイクなんか気にしない」といった風に接する人は、どこかで無理をしているかも知れないよ。でも、そうした誰かさんの努力によって、ブサイクが虐げられることはなくなるんだよ。その同情的なスタンスは対等さを欠いているとも言えちゃうけどね。対等なんか端っから望めないんだよ。だって、ブサイクだと思われてしまった時点で埋められない溝ができてんだから。それでも「対等な感じ」を取り繕うことならできる。人が目指すことのできる平等な世界は、そうした取り繕いの果てにあると思うよ。厳密には「平等な感じを取り繕えている世界」か。その世界では全ての人が、他者との間に埋められぬ溝があることを知りながらも、微笑みの裏側に嫌悪感をひた隠しながら、溝など無いかのように生きていくんだよ。そうすることで、お互いに邪魔されることなく人生を歩める。根本的な解決には程遠いと思うかも知れないけれど、現実的な落とし所なんてそんなもんだよ。人の内面なんて、そう簡単には変わらないばかりか、潜在的に差別を好む人は大勢いる。かつての殿様の家系を有り難がる奴とかね。そいつらは洗脳でもしなきゃ変わらないけど、そんなこと出来やしないし、すべきでもないから、せめて上っ面から取り繕ってもらおう。そうやって何百年かを過ごせば、いずれは内心も伴っていくんじゃないかな。比喩にしてもちょっと問題あるかもしれんね、このエントリは。

容姿を気持ち悪いと感じるのは仕方ないですが、それを表面に出してはいけませんよね。
ルッキズムを自覚したうえで、表面だけでも取り繕うのが大切という主張に同意です。

主張というよりは軽蔑ですかね。
多くの人は上辺の正しさを取り繕うことさえも放棄しており、おそらくは一生そのまんまです。

今日、思ったこと。


あのね、人って目立てば目立つほど悪口を書かれるもんなのよ。そして、悪口を書く奴の情熱っていうのは、良く言ってくれる人よりもずっと強くなりがちなのよ。1人のアンチが10人のファンと渡り合うほどの熱量を持つことなんてザラにある。中でも精神的に病んでるアンチとなると、寝る間を惜しむが如く悪口を書いているから、100人のファンとだって対等に言い争えるかも知れない。人気商売をしている人には多かれ少なかれアンチが付いてくる。これはもう不可避と言っていい。だから、受け手には耐性が要る。悪口を書かれる側の人のなかには、ネガティブなコメントに限って重く受けとめてしまう傾向を持つ人がいるけれど、そういう人はネットを見ないようにするか、それが無理ならば、せめて自分に「目を向けるべきはファンであって、アンチではない」と言い聞かせておかなきゃ、いつか心を壊してしまう。自分を好いてくれる人だけを見て生きていけるならば、そうするに越したことはないっすよ。全ての人に好かれるなんて、どだい無理な話なんすから。

……ぐらいの話なら、僕にだって出来るんすよ。してあげる相手がいないってだけで。

たまには政治的なお話をします。


IT業界で頻繁に引用されるマーフィーの法則のうちのひとつに「失敗する可能性があれば、失敗する」というものがあります。

とても有名なので知っている人も多くいるかと思います。

この法則は「操作ミスが可能なシステムであれば人は必ずミスをするから、仕様は慎重に決めようね」といった感じで用いられます。

「必ずミスをする」という表現は言うまでもなく大袈裟ですが、システム設計者の仕事の半分は最悪への備えと言っても過言ではないですから、最悪なユーザーによる最悪な操作を想定することの重要性を言い表すには多少なり大袈裟なぐらいが丁度良いんですよ。

僕もゲーム屋やらシステム屋をやっているうちに「やらかすことが可能であれば、やらかす奴がいる」と考えるようになりました。

仮に「自分は操作を間違えない」と主張するユーザーがいたとしても僕は信用しません。

今年最初のエントリに「この世はゆっくりと地獄へ向かっていく」と書きましたが、


今となっては僕じゃなくても同じように思う人がいるのではないですか? すべては、不徳が招いた罰ですよ。政治家様から庶民に至るまで、違法とならないギリギリのラインで悪行を追求するような世の中なんて地獄と化すに決まってますもん。皆様には人に優しくすることを心掛けてもらいたいんですけどね。「誰かに優しく」ではなく「人に優しく」ですよ。それだけで世界は今よりもずっと良くなるはずだと思うのですが、同時に「そんな世界はやってこない」とも思っています。人って根が邪悪ですからね。

【追記】

実は引用が入っているので元ネタを左に貼っておきました。ラース・フォン・トリアー監督が作った「メランコリア」という映画です。トリアーの映画といえば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が有名ですが、他にも癖の強い映画が沢山ありまして、いずれも人様にはお勧めできません。トリアー作品の多くは手持ちのカメラで撮影された3時間もある長大な鬱映画でして、たいがい女性が虐待されて可哀想なことになって終わります。結果として、地獄の中に救いを見いだす努めを観る側が背負わされるわけですが、その負荷の程度が、とてもじゃないけど人様に勧められるようなレベルにはないんですよね。鬱患者の思考の迷宮を歩かされるようなものと考えてください。実際、トリアー監督は年季の入った鬱持ちなのです。そんなトリアーが自身にとっての夢の終末を描いた映画が左の「メランコリア」です。この映画を退屈に感じる人は多いかと思いますが、そんな人でも最初の10分ぐらいは楽しめるのではないでしょうか(サービス映像みたいなもんなので)。僕にとっては、この映画のように世界が終わることよりも、終わりなく続く日常の方がずっと怖ろしく思えます。いつか来るものに対する心構えはあるのに、それが来るまでの永遠のような時間を迷い続けなければならないのですから。さて、話は変わりますが道満晴明先生も彗星との衝突による地球の終末を舞台とする「メランコリア」という漫画を描いておるようです。

堂浦君の順位を再考したい。


かつて僕が制作したゲームの主人公である堂浦君は「ダメ人間グランプリの2位」を自称しました。

「本当にダメな奴は何をやっても1位になれない」と考えた結果、そのような結論に至ったわけです。

しかし最近になって僕は「堂浦君には配慮が足りていない」と考えるようになりました。

上には上がいるように、下にだって下がいますから、きっと世の中には堂浦君を見て「俺よりマシじゃん」と思う人がいると思います。

堂浦君が2位に居座ってしまうと、堂浦君よりもダメな人の順位は必然的に1位となります。

1位となってしまった人は「自分よりもダメな奴だってどこかにいるはず」という期待を持つことができません。

これはよろしくありません。

堂浦君よりダメな人にも「自分こそが最底辺である(1位)」もしくは「辛うじて最底辺ではない(2位)」のうち一方を選ばせてあげることができるはずです。

この考え方に則るならば、1位と2位は永久欠番とすべきです。

自分を最大限に卑下する場合においても、自称するならばせいぜい3位でしょうね。

それが、底辺におけるマナーってもんです。

9段階評価(上の上・上の中・上の下・中の上・中の中・中の下・下の上・下の中・下の下)の場合も同じです。

「下の下」と「下の中」は欠番として「下の上」あたりを自称するのが、ダメな方向における正しい謙遜の作法となり得るのではないかと思うのです。

もちろん、人様から言われる分は別ですよ。

「おまえは下の下だ」と言われたならば、「ありがとうございます」と答えるまでです。