波風を立てることを恐れる人ばかりですけど、いいんすかねそれで。波風を立てぬまま年老いて死んで肉体と共に想いを焼かれて最初から存在していなかったかのように葬られるのを理想としているならば、それでもいいんでしょうけれど。たしかに、主張には勇気が要りますよ。必ず誰かに嫌われますもの。でも、誰にも嫌われないのと同時に、誰からも意識されないんすよ。存在していないのと同然に振る舞ったところで、空気ぐらいにしかなれないでしょうに。幸いにもこの国では辛うじて言論が自由なのですから、言いたいことを言っていきません? 大抵の主張にアンチはいますよ。なかには「口を閉ざせ」だの「お前には言う権利などない」だの「殺すぞ」だの言ってくる人もいますが、そういう人たちの教養のレベルって人間相手に議論を行えるようなステージに至っていない……というか、おそらく義務教育を受け損なっているので、相手にする必要はないと思います。いちおう書いておきますが、この国では、威力を使って人を黙らせるのも、危害を加えるのも、それを予告するのも違法です。私たちは「意見が対立するなら、話し合いましょう」と子供の頃から教えられているはずですが、実際にそれをやれる人は多くありません。相手の言葉に耳を傾けて聞き入れられる部分があれば折り合っていくのが建設的な議論というものですが、ネットやらテレビやら国会においては、言い負かすことを目的としたゲームをしている人ばかりです。僕自身は「己の誤りや知識の欠落を認め、更新を続ける柔軟性」こそが知の核心だと思っていますし、似たようなことをソクラテスは2000年以上も前から言っている……ということを知っている人は大勢いるはずなのですが、西暦2020年に至っても、それができる人はあまりいないようです。自らを更新することに貪欲な人は、新しい知見の吸収に労を厭いません。常に聞くべき言葉を探しています。知の巨人が如く頭ごなしに他者を否定するような真似などしませんし、声の大きな方の主張が通ってしまう「犬の喧嘩」のような議論もしません。議論には素養が要るのです。そして、その素養を持つ人は限られています。特定の主張が口憚られるものとされたり、口にするという行為自体が責めを負うような社会においては、議論となる以前の段階で主張が潰されることもあります。誰もが文明人ヅラしていますけど、実際のところはその殆どが野蛮人なんじゃないすかね。ともかく、いかなるトピックにおいても議論の相手にするのは「議論の素養を持つ人」に限るべきだと思います。それ以外の人は「大音量でリピートされる動画」のようなものですから、視聴の対象にはなりますが、議論の相手になりません。この切り分けが大事なんですよ。こちらが折れるまで怒鳴り続けるだけの人(支配だけを目的とする人)を相手にするのは不毛です。それはもはや議論とは言いません。おそらく洗脳か何かです。そのような土人を除いていけば、実りある会話のできる相手が見えてくるかと思います。こちらが知的に謙虚であり、かつ、ノイズに捕らわることなく知性ある人の方を向いてさえいれば、いかなるテーマにおいても議論は成り立つと思います。ようするに「アホ共のリアクションを気にするのをやめれば言いたいことを言える」と書いてみたわけです。