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空想を生み続ける機械。


まず僕たちには“ご臨終”という揺るがない結末があるわけよ。で、家庭を持つだとか、おっさん同志でシェアハウスに住むだとか、ホームに入るだとかしない限りは、おそらく気遣われることも、見送られることもないわけよ。何もしない場合は孤独死するんだろうけど、孤独死を避けたいのであればやれることがないわけでもなさそうだ。ただ、僕は一人が好きだから、ギリギリまで一人でいるのだと思う。

くたばるまでの時間をどう過ごすかについては、趣味さえあればどうにでもなると思うんだけど、愛情やら承認欲求やら自己実現への飢えから不幸を感じてしまう時間もあるのだと思う。他人がいなければ満たせない類の欲求が、心を蝕んでくるんだよね。僕たちは孤独であろうとも、社会的な動物でいることをやめられないらしい。とはいえ、そんなものは得られない。愛情も、承認も、僕らにはない。だから、他の何かで飢えを満たすか、飢えを忘れるかしなきゃならない。そのやり方を見つけて共有したいと20年前から思ってる。

僕らはどうしようもなく動物だから、理屈では処理できないものを抱えてる。これは前にも書いたことがあるんだけど、ヒトは本能に抗うと不幸を感じるように出来ている。つがいを見つけられず生殖を行えないってのは、理屈以前にまず動物として不幸を感じる。そんな風にできてる。でも、僕らは本能を騙すことができる。つがいがいなければ、いると思い込めばいい。生殖が行えないのであれば、行っていると思い込めばいい。やり方は簡単だ。みんな知ってる。物語とポルノを使えばいいんだ。でも、このやり方には落とし穴がある。思い込みから我に返ると現実に打ちのめされるんだ。小汚い部屋に暮らす惨めなおっさんである自分を直視したくないなら、決して夢から醒めてはいけない。僕が欲するのは、醒めない夢だ。溺死するまで潜っていられる夢だ。“誰か”ではなく“僕ら”が救われる道など、それぐらいしか思い浮かばない。

余りある想像力を持たない人は、空想の世界で生きていけない。万人が現実から逃避するには、空想の消費を上回るペースで物語を供給する必要がある。そんなこと、できるわけがないと思っていたけど、生成AIの進歩によって、どうやら光明が見えてきた。もしかすると10年後ぐらいには、醒めない夢を見ることができるようになっているかも知れない。そうなったら、このしんどい現実の方を夢ということにしてしまえばいいんだ。もちろん、現実に立ち向かうのも良いだろう。でも、誰もが勝てるわけじゃない。誰かは負けるし、諦める。そんな人のためのセーフティーネットが、この“空想を生み続ける機械”なんだよ。

狂気のはじまり。


僕は人として終わってるんだけど、終わった後の人生ってやつも終わる前と同じように複雑なんだよな。終わっているくせに、なんにだってなれる。善人にも悪人にもなれる。何が僕にとって良いのか分からないから、頻繁にスタンスを切り替えながら、しっくりくる生き方を探ってる。愛を説いたかと思いきや、その舌の根も乾かぬうちに憎悪を煽りだすような、支離滅裂な言動が常態と化しつつある。

ゲームとDEIは相性が悪い。


Link:「CONCORD」のローンチ失敗にみる,ゲーマーコミュニティに芽生えるアンチDEIの現状(4Gamer.net)

こういうのは公私で分割して考えると分かりやすい。まずDEIというのは公私で言うところの“公”の規範であって、ゲームという“私”の娯楽とは食い合わせが悪い。ゲームに限らずオタク文化でも何でも、“公”と“私”を混ぜると揉める。揉めやすいのではなく、まず揉める。“私”の娯楽は文字通り個々人の娯楽であり内心的な自由の領域に属するものだから、社会的に正しくある必要がない。人様に迷惑を掛けない限りは頭の中で何を思おうが自由ってのと同じで、一人で密やかに楽しむぶんには何を面白がるのも自由だ。どんなに下品で不道徳的なゲームだろうが漫画だろうが小説だろうが、好きなだけ楽しめばいいんだよ。“私”の娯楽とはそういうものなのだから、そこに“公”を持ち込むと厭われるってのは予想するまでもなく当然でしかない。

牛角問題が楽しそう。


しょうもない時事ネタに触るとそれだけで延々と遊べちゃうから意識的に避けているのだけど惹かれる。

嫌いを肯定してみよう。


底辺ゾーンにいる若者は人生の大逆転というものを信じがちです。歳を取るにつれ諦めに傾く人も多いのですが、中年になってもある程度の人は大逆転を信じます。逆転は格差の上に成り立つものですから、逆転を信じる人が多いほど社会の格差は安定します。富裕層になれると信じる人は、いつか自分が至るであろうその地位に疑問を抱かないのです。多くの人が貧しくとも社会が成り立ってしまうのは、底辺を這いつくばる人々が逆転を信じているからです。弱者が逆転を信じ続ける限り、強者は安泰なのですよ。だから強者は弱者に対し、死ぬまで夢を追って欲しいと思っているし、「努力すれば夢は叶う」とも言うのです。そんなわけないってことぐらい、反論するまでもなく分かるでしょうに。努力という言葉はあらゆるギャップを埋める魔法のように扱われがちですが、そのような魔法は存在しないのですから。そもそも努力なんて、目標を持ってそこに至ろうとすれば、自ずとしてしまうものなのですから、大抵の人は誰に言われずとも、その人なりの努力をしているものです。結果が付いてこない人には何かが足りていないのでしょうが、不足しているものを押し並べて努力とするのは浅薄なんですよ。たとえ全ての人間が最大限の努力をしたって弱者は生じてしまうのですから、努力の一語で片付くわけがありません。敗者に対し掛けられる言葉としては「努力が足りない」の他に「全力を尽くして負けたなら悔いることはない。胸を張って負けを認めよう」的な文句もありますが、これは「諦めろ」の言い換えです。頑張ったってダメなものについては諦めるしかないのです。頑張り抜いてから諦めるよりも、自分のポテンシャルを見極めた上で早々に諦める方が無駄な時間を使わずに済むと頭では分かっていても、僕らは往生際が悪いので、ついつい頑張ってしまいますし、頑張ること自体が生き甲斐になったりもします。それでもある程度の人は頑張ることを諦めて、頑張ったってダメな人なりの幸福を求めるようになります。しかし、何かを諦めた後の選択となると、いかなる道も妥協となってしまうため、コンプレックスに囚われてなかなか幸せになれません。僕などは「そんなもんだよ」と思うのですが、コンプレックスが障りになるのであれば自分を騙すしかないと思います。酸っぱい葡萄の論理を駆使して、“嫌い”や“要らない”を増やしましょう。頑張っても手が届かなかった事物の悉くを“嫌い”に変えていきましょう。ゲームを思うように買えない僕が、買わない理由を探してしまうように、血眼になって粗を探して嫌いになっていきましょう。変わったことを書いているつもりはありません。こんなことは僕が言うまでもなく、既に多くの人が実行しています。ネットを見るとそこいら中に“嫌い”が溢れているでしょう? あれは膨大な数の諦めが可視化された景色なんですよ。

プログラミングばかりやっているから日々の話題がない。


話題がないことを話題にするようになったら終わりだね。

生きていると思い通りにならないことが多いというか、思い通りにならないことだらけなんだけど、プログラミングは書いた通りに動いてくれるから素晴らしいのですよ。

おかねつかいたくない。


昨年の賃上げ率は約4%で今年は約5%だという。そこから0.5%程度を差し引いた数字が中小企業の賃上げ率になるらしいが、いずれにしろ自営の僕に関係がない。勤め人たちの給料はこの2年で10%近く増えているらしい。まったく羨ましい限りだよ。収入は増えていないのにゲームの値段が上がり続けているから、様子見をするタイトルが多くなった。ゲームに限らず、どんな物にも「失敗上等で手を出せる価格」と「絶対に失敗したくない価格」がある。僕にとって1万円は「絶対に失敗したくない価格」だから、余程の期待がなければ予約できない。評判がそこそこ良くても買えない。1万円も出して「そこそこ」は欲しくない。メタスコアならば90以上は欲しいし、Steamレビューならば「非常に好評」以上が欲しい。高望みをしているように思われるかも知れないが、僕にとっての1万円はそれぐらい重い。気持ちが買う方に傾きつつあっても口コミや動画のチェックを繰り返し行い、血眼になって買わない理由を探す。そんなことばかりしていたせいか、今の僕は新しいゲームに接しても、買う理由よりも買わない理由を探す体になってしまった。……と書くのは、これで3度目か4度目だと思う。ちょくちょく思うことだから、何度でも書いてしまうのだ。

余談。タイトルを書きながら思ったんだけど、たかだか金に“お”を付けるのって金の価値を大きく見てるみたいで触るよね。とは言え“金”とだけ言うとそれはそれで品がなくなるから困ったもんだな。

人様を救いうるメッセージを発していきたいと思っていた時期が僕にもありました。


そのために無い知恵を振り絞ったところ「自分一人さえ救えないメッセージには説得力がない」という結論に至りまして、それからは自分ファーストになったのですが、今に至るまで自分を救えていません。日銭を注ぎ込んで刹那の享楽に溺れるという営みを死に至るまで繰り返す生き様が既定路線となっているように思えます。いくら考えても、逃避しか道がないように思えるのですよ。

人が抱く欲求を満たすには、どうしたって他者との比較が避けられないので、優越的な立場を得られない人に対しては(がんばったってダメな人もいると知っているにも関わらず)「がんばろう」としか言いようがありません。この構造を覆すには欲求そのものを書き換える必要があります。具体的には、比較を無用とするパラダイムを構築しなければなりません。しかし、仮にそれができたとしても社会からは受け入れられないと思います。「ナンバーワンにならなくてもオンリーワンで良い」みたいな綺麗事を言う人もいますが、現実を生きる人々はオンリーワンを受け入れられるほどの寛容さなど持ち合わせていません。オンリーワンを排除するのは簡単です。「キモい」と言えば良いのですから。あるいは、仲間外れにすれば良いのですから。あるいは、虐めてしまえば良いのですから。

まあ、そんなこんなでね。社会の側に変化を求めるアプローチには無理があるわけですよ。となればもう、社会から虐げられられないよう隠れて凌ぐしかないでしょうよ。本を読んだり、ゲームをしたり、シコったり、ネットに悪口を書いたり、フィクションに没頭したりしながら、生きていくしかないでしょうよ。それが負け犬にとって最高の生き方であるというのであれば、与太話の一つでも提供して束の間の夢を見せて差し上げるというのが救いの形になると思います。モヤッとするでしょう? 僕はモヤッとしますよ。結局のところ妥協ですからね。

僕たちが人畜無害であり続けることを辞めるという前提を置くのであれば別の話もできるのですが、それを僕のモノローグとして書くと何らかの教唆に問われてしまう可能性があるので具体的なことは書けません。その代わりに、僕の夢を一つ書いておきます。僕の夢は、ガンにでもなって余命宣告をされて失う物が全てなくなった後に、貯金が底をつくまで風俗にでも通ってあらゆる性病をもらった後に、脳に電極を刺してイキ狂いながらくたばることです。ただ、電極のくだりは素人ではどうにもなりませんから、脳科学者の友達を作ることに残りの人生を費やそうと思います。

猥褻物ってなんなのさ。


おちんちんを見せちゃいけないって誰が決めたのさ。おちんちんを見ると不快になると言う人は、お風呂に入るたびに不快になるの? それは後天的に刷り込まれた価値観に過ぎないのに、どうして生得の法みたいに言っちゃえるのさ。僕が残念に思うのは、それを疑問に思わない人が多いことだよ。何を教えても「どうして?」と口にする子供たちの方がずっと賢いと思う。誰にだって、そういう時期はあったはずなのに、どうして疑うことを諦めてしまったんだろうね。どういうわけか、人って大人になると「良くないものは良くありません」みたいなトートロジーを喚く機械になっちゃうんだよ。僕が通っていた小学校の先生も、「どうしてセックスしてはいけないのですか?」という質問に対して「駄目なものは駄目だから」と答えていたよ。大人から「良くないものは良くない」と教わった子供たちが、理由を知ることもなくそれを受け継いでいくさまは、滑稽だし、この上なく頭が悪いと思う。少なくとも僕は、子供がセックスをしてはいけない理由やら、人を殺してはいけない理由を説明できる大人になれたけど、疑うことを諦めてしまった人たちは、僕の学校の先生のように「駄目なものは駄目」と言ってしまうのだろうね。これは言うなれば、馬鹿の再生産だよ。僕はそんな風に思うから、下ネタを嫌う人に遭遇するたび、内心で頭の悪さを疑ってしまう。過去に性被害を受けたなどの理由があるのであれば理解できるんだけど、多くは理由がないからね。

PS5の新価格の度が過ぎる。


目を疑った。どういう戦略でこうなったん?
これで売れたら面白いけど僕は絶対に売れないと思う。

Link: 日本国内におけるPS5®および関連周辺機器の希望小売価格改定に関するお知らせ