Author:


まあ、こうなるよね。


Link: スクエニ、AI実験版『ポートピア連続殺人事件』をSteam向けに24日無料配信へ。賢くなった“AIヤス”が、プレイヤーの自由文を理解(AUTOMATON)

でも、これはまだ序の口だと思う。

絶対支配。


議会制民主主義は簡単に悪用できる。全ての候補を用意すればいい。大衆は選ぶ側にいるつもりだろうから、選ばされていることには気付かない(「マジシャンズチョイス」と呼ばれる手法だそうだ)。真の権力者というものが仮にいるのであれば、まず間違いなくそれをやると思う。政党制も、供託金制度も、そのために存在していると、僕の陰謀論脳は言っている。

女性を蔑視する感覚は分からん。


前にミソジニーをどう思うか訊かれたことがあるんだけど、いまいち見解が定まらんというか、そもそもピンときてない。僕にだって嫌いな男や女の十人や二十人ぐらいはいるけれど、その対象は特定の個人であって、生物学的な分類を丸ごと蔑めるほど器用ではない。身体能力は男性の方が優れていると言われているし、スポーツの記録を見る限りではおそらく当たっているのだろうけど、僕という個人に限って言えば大抵の女性よりも喧嘩に弱いと思う。小中学生にも勝てる気がしない。老若男女を問わず大抵の人はクソ馬鹿であると同時に何かしらにおいては僕よりも優れているのだと思う。ゆえに、僕に限れば「一般的には男性の方が強いのだから、男性である自分は女性よりも強い」とは口が裂けても言えないのだけど、言えたからといってそんな主張に意味があるとは思えない。「○○においては男性の方が女性よりも優れている」とかいう主張は隷属の関係を強化するために用いられるものだと思うけど、僕はいかなる隷属も否定されるべきだと思ってる。こうした考え方は、分類としてはフェミニズムに属するのかも知れないけれど、そのように自覚したことはない。僕自身は「持って生まれた属性」という、人が選択できないものに対する蔑視を嫌っているだけだからね。あと、これを書くと身も蓋もないというか、全てが台無しになってしまうのだけど、僕は人間を等しく見下している。見下す範囲が広すぎるせいで差別が成立しなくなり、一周回って博愛主義者と似たような事を言うようになってる。

基本的に、僕は人から嫌われる。女性は勿論のこと、男性からもだ。だから、自分を嫌う人間を逆に嫌おうとすると、男女の別なく嫌うことになる。さらに言うと、僕は自分のことが嫌いだ。だから僕は、僕を嫌う僕を、また嫌う。女性の気持ちに立って自分を評価してみると、おそろしくキモいとしか言いようがないので、嫌われるのは当然だと思ってる。これが逆に「もし僕が女なら、僕みたいな奴を放ってはおかない」と思えるようであれば、自分を好きにならない女性を憎むことができたのかも知れないけれど、幸いにも僕は自分をキモいと思うことができた。自分がセックスに興じる無様な姿を相手に見せなくてはならないのかと思うと、セックスをする気にもなれない。結果として、自分でセックスをするのではなく、他人のセックスを見たがる変態になってしまった。歪んでいるという自覚はあるけれど、どうにもできないし、さして困っていないから、どうにかしたいとも思わない。ときおり「自分を見放した女性に宣戦布告」という体で過激な主張をする人を見ると羨ましく思ってしまうことがある。そのような人は自らを「見放されるべきではない人間」と評価しており、自分を肯定できている。僕には、そのようなものがない。

自己評価がとてつもなく低いのに他人を見下す態度をとることには捻れがあると思われるかも知れないが、その理由を述べるのは簡単だったりする。たとえば「暴力反対!」と叫びながら他者に殴る蹴るの暴行を加えている奴を目撃した場合に、どう思うかという単純な話だ。僕は「まるで一貫性のないキ印だな」と思う。それと同様のことを、ほぼ全ての人に対して思ってる。

相続を容認する人が機会平等を語るのって僕からすりゃ茶番なんだけど、そこに疑問を抱く人は少ない。


大抵の人は正義を重んじる振りをしながら生きてるんだけど、その正義には「但し、自分が損をしない限りにおいて」という但し書きがついてる。みんながそれぞれに自分の権益を確保した上で片手間に正義を為そうとしている。親の財産を引き継ぎながら格差問題を語るような奴に誠実な主張ができるとは到底思えないんだがな。一部の人間だけじゃなく、多くがそうだから、くだらない。その正義とやらは「ごっこ」に過ぎんだろ? 僕にはそのような人たちのために何かをしてあげる気などないから、自分のために生きてるよ。以前、この話をした相手から「子供に財産を残せないとなると勤労意欲がなくなる」と言われたけれど、それで問題ないと思ってる。誰かが働く意欲をなくせば、他の誰かに機会が生じるからね。しかし「親が死んだら実家を出なければならない」とすると、住居を奪うことになってしまうから、不動産に関しては実際に居住する一軒に限り相続を認めるしかないとも思ってる。これが最大の妥協だな。この主張が尖鋭的なのは分かっているし、到底受け入れられないことだって重々承知してるけど、僕は実現させたいことを書いているわけじゃないんだよ。では何のためにこれを書いているかというと、誰かを小馬鹿にするために書いてる。

死んだら無に帰せるとかいう考えは一つの願望に過ぎないということを大抵の人は分かっていないと思う。


そりゃ僕だって死んだ後には無があって欲しいと思うんだけど、シミュレーション仮説を採用する場合は「あの世」を否定できなくなっちゃうんだよね。シミュレーション仮説には反証可能性がないから、眉唾であっても「ない」とは言えない。あるかも知れない。残念ながら死後に見る景色を語れる生者などいないから、答えは不可知の領域にある。天国やら地獄やらを想定して、天国へ行くための切符を売るのを商売にしている人もいるけれど、あれは不可知の悪用だと思う。実際のところ、不可知と向き合う手段は限られている。たとえば貴方が密室に閉じ込められていると仮定して、その部屋には固く閉ざされた扉が一つだけあるとする。扉には貼り紙がしてあって、そこには「この扉はいつか自動的に開きます。扉の向こうには楽園があるかも知れません。あるいは怪物が飛び出してくるかも知れませんし、何もないかも知れません」と書かれているとする。実際には何が待ち受けているのか分からないし、知る術もない。そのような状況において僕たちが懸念すべきものは、「楽園」や「無」ではなく「怪物」なんだよね。「楽園」やら「無」に対しては、備えをする必要がないわけだから。つまり、不可知と向き合うためには、最悪への備えをしなければならないってことだよ。天国へ行くための徳を積むのではなく、地獄へ行くことを前提として準備をするのが正解なんだよ。不可知に対応しようとすると、物の見え方が変わっちゃうんだ。僕らが地獄で何を想うかを考えると、生きているうちに思いを馳せるものを残しておくことが重要になってくる。この世界に残された人々が故人を偲ぶ以上に、故人の側が残された人々を偲ぶことこそがより重要になる。生前の世界にいかに爪痕を残すかもまた重要だし、それを実現するための強力な手段として子作りがあることも分かってくる。思い出も武器になるから、今が楽しければ良いという生き方も悪くない。音楽も沢山聴けばいい。頭の中で鳴らせる音が多ければ多いほど地獄は快適になる。逆に全く意味がないのは、思索の糧にならない情報の消費を娯楽として生きてしまうことだろう。ゴシップなんか、まるで使い道がないからね。死後のことまで考えるならば、日常的に触れる情報の質には注意を払うべきだと思うよ。このような考え方は非科学的であっても、非科学的なりに筋が通っていると自分では思う。だから僕はそう簡単に死ねない。百年足らずの時間など、不可知に備えるには短すぎるくらいだ。死んだ先には無があると信じて、何の準備もなく向こう側に飛び込める人々の潔さには感心するけれど、正直なところ蛮勇に思える。考えうる最悪の状況よりも、この世界が少しだけマシである限り、そんなギャンブルはしたくない。

考えうる最悪に備えるには、痛みや苦しみに立ち向かうすべを学ばなけばならない。自分を喜ばせるために必要な道具を得ておかなくてはならない。この世界にいるうちに、この世界にあるものから、生き抜くために必要な知識を可能な限り吸収しておかなければならない。次の世界での境遇が、最悪の業苦だろうが、最悪の孤独だろうが、少なくともこの世界にいるうちは、最悪にまでは至らない。友達と呼べる者はいなくとも、他人がいるだけマシだろう。他人と上手くやれば縁(よすが)を作れるし、逆に嫌えば孤独に馴染める。それができるのは、この世界に、たまたま他人が存在しているからであって、次の世界も同じとは限らない。誰かに気持ち良くしてもらえるのも、不快な思いをさせられるのも、この世界にいるうちだけかも知れない。完全な孤独に身を沈めることになれば、不快な感情すら懐かしく思える時がくるのかも知れない。いつか、外的な要因から生じる感動の全てが貴重に思える時が来るのであれば、この世界から得られる感動は見境なく得ておくべきだろう。このような考え方を突き詰めていくと、全てに感謝する変態が仕上がる。そう、目指すところは変態なのだ。万物に感謝できる変態だけが、次の世界を上手に泳ぐと思う。

触らない努力。


ちょっとした事件であれ社会問題であれ気を抜くと物申したくなっちゃうんだけど、意識的に触らないようにしている。問題を消費することで暇を潰すことを目的化するような振る舞いは褒められたもんじゃないなと思って。人々は何かと怒りたがるけど、一年後も同じように怒っている人なんてそうおらんでしょ? 一ヶ月だって怪しいもんだよ。消費し終えた問題はゴミ箱に捨ててしまっているでしょう。解決しようが、しまいが、同じようにね。人の器には限りがあるから、幾つもの怒りを延々と抱えてなんかいられない。だから、限りのある怒りの矛先は本当に許せないものに向けておきたいんだよね。一ヶ月後も、来年の今頃も、同じ熱量で怒っていられそうなものにさ。どのようなニュースにも思うところはあるけれど、いちいち食い付いてなんかいられない。そういうのは、自分のためになる行いを見失っている人がやることだと思う。

Unityのアセットを一つ買うかどうかで半日悩んでる。


金が欲しいぜ。

可能性の錯誤。


嫉妬には「俺だってアイツのようになれていたはずなのに」というお約束のような思考があるのだけれども、この時点で既に自分の可能性を見誤っている人が多いと思う。まず「アイツ」とかいう奴と同じように振る舞っても、同じような結果を得られるとは限らない。スポーツなどは特に顕著だ。全く同じように訓練したって差が出てしまう。就職やらの採用にしたって見た目以外のスペックが全て同じであれば、見た目の良い方が選ばれる。ルッキズムは言葉に表さなくとも存在しているし、存在し続ける。だから、同じように振る舞ったとて差は付く。しかし、大抵の場合において「及ばなかった奴」は「及んだ奴」と同じように振る舞ってすらいない。やることをやっていない奴の僻みというのは、万馬券を当てた奴に向かって「俺だって買っていれば当たってた」とほざくようなものだ。そのような輩は競馬で一山当てる際に最も重要な「馬券を買う」というアクションをとらなかったことを、ちょっとした誤差であるかのように言う。言うまでもなく、それは誤差などではない。最も重要なことをしていないのだから、はなっから及ぶわけがない。「自分にだってやれたはず」という考えは、無為を過小に見積もりすぎている。それを小さな違いと見做すような奴は、これまでも、これからも、及ばないと思う。ゲームで喩えるならば、全く同じステータスの持ち主でも、魔王を倒しに行く方が勇者で、そうでない方はモブになるってことだよ。この僕にしたって幼少期からピアノを学んでいればショパンコンクールの1位を取れていたはずだけど、ピアノに触れずに育っちゃったよ。惜しいね。

もういっこ書いとこうか。「その気になりさえすればできる」という考えも思い込みであることが多いと思う。強盗であれ通り魔であれ未遂となる事件が多くあるように、その気になってみたところで上手くいかないことはある。僕も十代の頃に一度だけイジメっ子を殺そうとして失敗したよ。こちらが殺す気になったところで、相手が弱くなるわけじゃないからね。せいぜい不意を突ける程度で、そこを外すと普段と同じようにフィジカルの格差でやられてしまう。一世一代の勝負に出るには、入念な準備とリハーサルとイメトレが要る。普通の人が精神論だけでどうこうできるもんじゃないと思うよ。僕の場合は失敗して良かったんだけどね。上手くいってたら前科者だから。

RPGは難しい。


趣味でD&Dやらドラクエやらを参考にRPGのシステムを作っているのだけれど、想像していたよりもパズルとして巨大でやり甲斐が凄い。能力の扱いを複雑にするほど非直感的になり爽快感も薄れるが、直感と快感を重視すると今度は細部が大味になってしまう。何かに使う予定もないけど、しばらくはこれをやってると思う。

この画像ではd20を使ってるけど、CRPGでd20を使う理由が無かったから今はd100を使ってる。

最初はフリーシナリオのゲームを成立させる方法を考えていたのだけれど、あらゆる状況に対応できる(設定ではなくシステム的な意味での)キャラクター構築が全てに優先するという結論に至って、オーソドックスのど真ん中にあるようなRPGのルールを作り始めちゃってる次第。パラメーターを固めなければイベントのトリガを策定できないしNPCも動かせないからね。ただ、もうじき出ると言われる「RPG Maker Unite」の拡張性が優れていた場合は、僕がやってることの半分ぐらいは必要なくなりそうな気がする。

「Low Magic Age」が大きく進化してくれたら。あるいは「Elona」が発展してくれたら。もしくはアートディンクが再び「ルナティックドーン」をやる気になってくれたり、コエテクが「ジルオール」を再始動してくれるというのであれば、僕はこんなことを考えずに遊んでいられるのにな。なお、アートディンクとコエテクには期待してない。仮に実現したとしても超高確率でクソゲーを作ると思う(理由:その手のゲームは偏執的な変態が商売を横に置いて手間を掛けないと作れないから)。

僕の中には狂人がいる。


幼い頃は狂人を前面に出して暮らしていたのだけれども、10歳で死にたいと訴えるガキに対応できる大人などいなかった。そうしているうちに、誰も自分の状況を救えないことや、周囲を酷く困らせる結果にしかならないことを理解した。だから、表現を抑えた。何も良くはなっていないのだけれども、表に出しさえしなければ周りが困ることはない。その生き方は、おっさんになった今も変わっていない。本心を言葉にしようとすると生き死にの話をしてしまいそうになるが、僕は長年の経験から、その手の話題が聞き手のギアを切り替えてしまうことを知っている。それはもう、とても分かりやすく変わるものだから、自分に対し「あ、コイツはヤベえ奴だ」とレッテルが貼られる瞬間が分かる。その手のコミュニケーションの失敗を十代の頃に散々やらかしたおかげで、二十歳になる前には言葉を発するよりも先にリアクションを想像できるようになっていた。僕が平熱で語る生き死にの話が、普通の人には重たいらしい。ここで使った「平熱」という言葉には「素面の僕が、日常的に、当たり前のように考えていること」という意味を込めているのだけれども、そこが全く理解されない。まるで重大な告白でもされているかのように受け止められてしまう。ときには「まさに、これから命を絶つ気ではないか」と思われてしまったりもする。小学生の頃から死にたがっていた人間が、この期に及んで死んだりなんかせんのにな(逆にね)。僕は既に、自分を生かすための理論を持っているし、生きる理由も分かっているし、死ねない事情も抱えてる。目の前に死にたいという人がいるなら、説得を試みさえもする。自分で言うのも何だけど、本心を語りさえしなければ、極めて真っ当な人なのさ。願わくば、誰からも心配されることなく「死にたい」と言いたいのだけど、難しそうだ。誰もが希死に関する話を腫れ物のように思ってしまってる。もしかすると皆の心の中にも多かれ少なかれ希死念慮はあって、そこから目を背けたがっているからなのかも知れないね。目を背けることができるのであれば、そうするに越したことはない。僕はそんな人たちの邪魔をしたくないから、やはり、大っぴらには語らない方が良いのだと思う。たぶん、これが分別ってやつなんだ。分別を持たない頃には、壊れた心を隠そうともせず裸で書き殴り続けて、人様に迷惑を掛けていたけど、それが許されるのは十代までだよ。成人してからもそれを続けると、単に痛いというだけじゃなく、社会的にも生きていけないからな。大人というものになったなら、なけなしの社会性で誤魔化しながら、なんとかやっていくしかないのだ。

という文章を、割と気を付けながら書いたのだけど、客観的に評価をするとこんなものでも「危うい人」の分類に入ってしまうと思う。だから、これまでの僕の判断基準のもとではブログに載せることもなかったのだけど、最近になってようやく「ほぼ誰も読んでいない」という判断ができたのでフィルターを緩めることにした。ある人が「著名でもない人の自分語りは無価値」と言っていたけれど、無価値と見做されるようになってようやく書けるようになることもあるんだよ。