【ロマンシング サガ2 リベンジオブザセブン】
今年のゲームオブザイヤーはこれにしちゃっても良いと思うよ。
現在、顔面に炎症が出ておりまして、かかりつけのヤブ医者からは「乾燥だからワセリンでも塗っとけ」と言われたのですが、ワセリンは既に塗りまくっているため、他の手を考えねばなりません。
そこで検索をいたしましたところ、海のものとも山のものともつかぬ保湿製品が大量にヒットいたしまして。
そんなゴミの山の中から真っ当な製品を探し当てるべく日夜努力をしている婦女子の皆様には頭が下がる思いがしましたよ。
不倫以前にパートナーがいない僕にとって、不倫など対岸の火事である。
それなりの著名人が不倫によって俗物のレッテルを貼られ転落するさまを眺めるのは痛快だ。
僕はそうした著名人とは縁もゆかりもないのだけれども、「謝罪してください」とネットで騒げば、どういうわけか謝ってもらえたりもする。
何ら被害を受けていないにもかかわらずノーリスクで著名人を責めることができて、土下座までしてもらえるのだから、こんなに楽しいことはない。
……と、露悪的に書いてみたけれど、不倫を肯定したいわけでもない。不倫をする奴も、それで騒ぐ奴も、等しく下衆だ。
著名人の不倫が殊更に嫌悪されるのは、潔白なイメージを売っている反動によるところが非常に大きい。
そして、不倫によって毀損されたイメージは謝ったところで拭えない。
飢えた人が食べ物を盗むのとは違い、不倫に同情を集めるためには相当な事情が必要になるから言い訳をするのも難しい。
謝罪を求める人々は謝られたら許すのが筋だと思うが、おそらく、誰にも許す気などない。
ゆえに、謝罪など茶番だ。不倫をした著名人の命運は、幻滅された時点で既に尽きているのだ。
それでも、藁にでも縋るかのように謝罪をするアホをみるのは面白いから、僕らはネットでの弾劾を続けるわけだよ。
償うてください、償うてください。
僕は通院と散髪とコンビニのためにのみ外出する程度の半ひきこもりだ。
二十代の頃には陽キャめいたムーブを試してみたこともあるのだが、根本的に向いていなかった。
お外はつらい。目にする人々の悉くが輝いて見える。
まるで「うちらはこの世界を闊歩しても良い側の人間です」と主張しているように思えて居たたまれない。
万人に見下されているように感じる。
「すんません。僕みたいなゴミが外なんか歩いちゃってすんません」と謝りたくなる。
原因は分かってる。自意識過剰が過ぎるんだ。「なりたかった自分」が「なれなかった自分」を見下している。
僕にとって部屋の外っていうのは「なりたかった自分」の領域だから、「なれなかった自分」に居場所はないんだよ。
この認識に問題があることは重々分かっているのだけれども、どうにかできる気がしない。
外出中、目にする人々に、なりたかった自分の面影を見てしまう。
「なぜ僕は、ああなれなかったのか」と、妬心が疼く。
すると相手が僕の声を使って「よう、負け組」と嘲笑してくるわけさ。
これじゃまるで統合失調じゃないか。まあ、似たようなものかも知れないけどね。
できることなら、自信を持ちたい。世界は僕のものだと言わんばかりに我が物顔で外を歩きたい。
……と、心のどこかでは思いながらも、シンプルに向いていないとも思う。
そんなありようは、僕らしくない。
妬心に耐えながら惨めに地を這うさまにこそ、僕の“らしさ”があるとも思ってる。
であれば、やはりもう少し外には出て行くべきなんだろうな。
外に出る方が惨めになれるだろうから。
それが三十代になると「全裸に限る。腰巻きのようにスカートだけを残すような奴は死ねばいい」と言いだした。
そして四十代となった今では、確信を持ってこう言える。
下品なキスよりもエロいものはない。
で、疲れたからコントローラーを置いてネットを見たら、吉田豪が燃えてた。
アレルギーの原因には思い当たる節があるというか、思い当たる節しかない。おそらくハウスダストアレルギーだろうが、前に掃除をしたのがいつだったか思い出せないほどだから、何かが原因というのではなく、おそらく全てが原因だろう。さしあたり、シーツと枕を洗った。バスタブに張った湯に枕を沈めて踏みつけてみたところ、みるみるお湯が茶色く染まった。完全に泥水の色だった。「よくもまあ、毎日こんなもんに頭を乗っけていられたもんだな」と感心したよ。
見た目で人を判断しない世界というのは、戦争のない世界と同じぐらいの絵空事なんだよ。見た目で人を判断するのは良くないと思っている人は多いけど、その倫理観に伴う行動はせいぜい“見た目のことを悪く言わない”といった程度で、内心では依然として人を見た目で判断しているし、そんなものは正しようもない。良くはないけど無くなることもないというのがルッキズムの現実なのだから、それはもう、そういうものとして受け入れるしかないんだよ。人前では「人を見た目で判断してはいけない」と言いながら、家に帰ると血眼になって自分の見た目を磨くのが人間という情けない生きものなんだ。多くの人が内心では“ありのままの自分を認められたい”と願いながらも、ありのままの他人を認めないから、ありのままの者が認められることはない。ありのままでいる自由はあるけれど、ありのままでいては好かれない。人様との関わりを大切にしたいのであれば、どうしたって頑張る必要がある。
……と、偉そうに書いておいてなんだけど、僕はたいしてがんばってない。四十路にもなって無理な背伸びをするよりも、ピュグマリオンに倣ってフィギュアでも拝んで命が宿るのを待つ方が僕の性に合うと思うんよ。あるいは、バ美肉おじさんになるとかね。
最近ブログを更新しなかったのは、メタファーをやっていたからさ。
【Starfield – Shattered Space】
つまんねえ。
【メタファー:リファンタジオ(購入前)】
体験版をやりました。
これは“ペルソナみたいなゲーム”ではなく、ペルソナそのものだと思います。
ペルソナそのものってことはつまり、1周やるぶんにはめちゃくちゃ面白いけど、2周目からはコミュ上げにウンザリさせられることになるのでしょうね。
とは言えクリアに80時間かかるとのことですから、仮に1周で投げたとて燃費は悪くないのかも知れません。
迷いますなー。
【メタファー:リファンタジオ(クリア後)】
トゥルーエンドまでやりました。
以下に所感を述べますが重大なネタバレに触れるので、ネタバレを避けたい人は読まないようにしてください。
まず、期待通りには面白かったです。特にバトルを面白く感じました。メガテンというよりも、FFのアビリティージョブシステムを触っているようでした。ただ、重複するスキルが無効化される仕様はシナジーを構想する余地を殺しているように思いました。その仕様のせいで「MP大回復とMP中回復を組み合わせれば最強じゃん」という僕の夢は露と消えてしまいました。シングルプレイのゲームは多少バランスが壊れようとも極端なことをやれてしまう方が楽しくなると僕は思うのですよ。ゲーム全体の流れは予想通りのレールプレイングでしたから、どんなに1周目を楽しめたとしても、しばらくは(あるいは永遠に)2周目をやらないと思います。また、ストーリーの大枠は面白いのですが、生まれによる差別を乗り越えていく主人公を貴種流離譚で処理するやり方は僕の好みに合いませんでした。このゲームの舞台は、王位を懸けた選挙戦です。悪役であるルイという候補は民草に対し、弱者救済の伴わない弱肉強食の主張を繰り広げます。曰く「実力主義であれば社会から理不尽がなくなる」とかなんとか。確かに一部の理不尽は減ずるでしょうが、代わりに“正しい差別”が蔓延るでしょうし、“生得の素質の格差”という理不尽は依然として残り続けるのですが、彼に言わせると「弱い奴が悪い」のだそうです。この極論バカに対し、我らが主人公は「困っている人は助ける」という弱者救済のスローガンを掲げて立ち向かうのですが、王位を懸けたこの選挙戦は殴り合いによって決着を見ます。反則行為が罷り通っているとは言え、支持率2位の主人公が支持率1位のルイを斃してしまう流れには些か問題があるようにも思うのですが、結局、正しきを定めるのは武力ってことすかね。そういう、ちょっとしたモヤモヤが積もり積もって、ストーリーへの評価は70点ぐらいになりました。それでもしっかり楽しめたので、全体としては90点ぐらいの出来になっていると思います。購入前は「高い」と愚痴りましたが、100時間ほどプレイできたので1万円の元は取れたかと。
【メタファー:リファンタジオ(引き継ぎ2周目)】
上で「しばらくは(あるいは永遠に)2周目をやらない」と書いたばかりなんですが、少しだけやりました。ゾッとするほどつまらなかったです。初回プレイには90点を付けたのですが、2周目には30点も付けたくないです。
【ロマンシング サガ2 リベンジオブザセブン】
買ったけれども先に↓をやってます。
【Factorio: Space Age】
ヤバいと知りながら手を出してしまいました。
人生が終わるかも知れません。
【Remnant II】
DLCが出たのでやりました。トレハンや謎解きやソウルライクといった要素がある全部盛りのシューターですが、それぞれの要素が浮くことなくゲームに馴染んでおり非常に楽しめました。ビルドを引っ繰り返すような激つよ装備を拾うと脳汁が出ますよ。僕のお勧め武器はボーンソーとMP60-Rです。これらはド序盤で手に入る武器ですが永遠に使えます。取得難度の高い武器もある程度は持っておりますが、結局これに戻ってきました。実家のような安心感があります。実家なんて四半世紀ほど帰ってないけどね。
「でも」が多い人はマウンティングを好む。
「要するに」と置きながら無駄の多い話をする人や、「要するに」から続く語りの中でさらに「要するに」を重ねる人は、頭が悪い。
「本当に」は文字通りに真偽を意味するわけではなく程度を表す言葉でもあり、「すごく」に変換することができる(「本当にそう思う」→「すごくそう思う」)。しかし多用をすると程度の対比が失われるうえに、バカっぽくなる。
人の話を聞くときには、この三つの言葉を数えてみるといい。役に立つことはないだろうけど、つまんない話をされても少しは遊べる。
さらに付け加えるとしたら「超」or「めっちゃ」かな。これは、ホストの動画を観ていて気になった。ホストはこの副詞を「超(orめっちゃ)かわいい」「超(orめっちゃ)うれしい」「超(orめっちゃ)きれい」といったふうに乱射する。僕はそれを見て「相手によってはバカにされているように感じるのでは?」と思ったんだけど、意外にも喜ばれるらしい。とはいえ、ただ言えば良いというものでも無いようだ。どうやら、そこにはテクニックがある。僕が見るところ、ホストは愚直な本心の吐露を演出するためにあえて語彙の程度を低くしている。もちろん、バカを演じる必要がないナチュラルなバカでも同様の結果を出せてしまうわけだけど、そういう奴は生き残れないのだろうな。どうでもいい話をしちゃったよ。そんじゃ、超エロい動画でめっちゃシコって寝るね。
僕は三流ながらもフルスタックのエンジニアだから、いきなり何かが壊れたりすると猛烈に忙しくなる。忙しくない時でも普段から「あれが壊れたらこうしよう」などと最悪の状況ばかりを考えているから、悲観が仕事と言っていい。起こり得ることは起こるのだ。滅多にないことでも、稀にはあるのだ。ただ、どんなに僕がリスクを訴えたところで、クライアントが楽観的だと備えを認めてもらえない。それでも、訴えることには意味がある。あらかじめ訴えておかないと、コトが起きてから「なぜ指摘してくれなかった」と責められるからね。万事、あらかじめ伝えておけば、何が起きたって「ほら、言わんこっちゃない」と言える。しかし、悪いことばかり考えるのは疲れる。ネガティブな思考をするのが癖になってしまっていて、自分の未来に関しても最悪の想定ばかりしてしまう。そんな僕の今を支えているのは、太田上田のえなりかずき回だ。延々とループ再生している。理由は全く分からないけど、えなりかずきのトークには人を癒やす力があるのだと思う。