嫌いを肯定してみよう。


底辺ゾーンにいる若者は人生の大逆転というものを信じがちです。歳を取るにつれ諦めに傾く人も多いのですが、中年になってもある程度の人は大逆転を信じます。逆転は格差の上に成り立つものですから、逆転を信じる人が多いほど社会の格差は安定します。富裕層になれると信じる人は、いつか自分が至るであろうその地位に疑問を抱かないのです。多くの人が貧しくとも社会が成り立ってしまうのは、底辺を這いつくばる人々が逆転を信じているからです。弱者が逆転を信じ続ける限り、強者は安泰なのですよ。だから強者は弱者に対し、死ぬまで夢を追って欲しいと思っているし、「努力すれば夢は叶う」とも言うのです。そんなわけないってことぐらい、反論するまでもなく分かるでしょうに。努力という言葉はあらゆるギャップを埋める魔法のように扱われがちですが、そのような魔法は存在しないのですから。そもそも努力なんて、目標を持ってそこに至ろうとすれば、自ずとしてしまうものなのですから、大抵の人は誰に言われずとも、その人なりの努力をしているものです。結果が付いてこない人には何かが足りていないのでしょうが、不足しているものを押し並べて努力とするのは浅薄なんですよ。たとえ全ての人間が最大限の努力をしたって弱者は生じてしまうのですから、努力の一語で片付くわけがありません。敗者に対し掛けられる言葉としては「努力が足りない」の他に「全力を尽くして負けたなら悔いることはない。胸を張って負けを認めよう」的な文句もありますが、これは「諦めろ」の言い換えです。頑張ったってダメなものについては諦めるしかないのです。頑張り抜いてから諦めるよりも、自分のポテンシャルを見極めた上で早々に諦める方が無駄な時間を使わずに済むと頭では分かっていても、僕らは往生際が悪いので、ついつい頑張ってしまいますし、頑張ること自体が生き甲斐になったりもします。それでもある程度の人は頑張ることを諦めて、頑張ったってダメな人なりの幸福を求めるようになります。しかし、何かを諦めた後の選択となると、いかなる道も妥協となってしまうため、コンプレックスに囚われてなかなか幸せになれません。僕などは「そんなもんだよ」と思うのですが、コンプレックスが障りになるのであれば自分を騙すしかないと思います。酸っぱい葡萄の論理を駆使して、“嫌い”や“要らない”を増やしましょう。頑張っても手が届かなかった事物の悉くを“嫌い”に変えていきましょう。ゲームを思うように買えない僕が、買わない理由を探してしまうように、血眼になって粗を探して嫌いになっていきましょう。変わったことを書いているつもりはありません。こんなことは僕が言うまでもなく、既に多くの人が実行しています。ネットを見るとそこいら中に“嫌い”が溢れているでしょう? あれは膨大な数の諦めが可視化された景色なんですよ。

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