話題がないことを話題にするようになったら終わりだね。
生きていると思い通りにならないことが多いというか、思い通りにならないことだらけなんだけど、プログラミングは書いた通りに動いてくれるから素晴らしいのですよ。
話題がないことを話題にするようになったら終わりだね。
生きていると思い通りにならないことが多いというか、思い通りにならないことだらけなんだけど、プログラミングは書いた通りに動いてくれるから素晴らしいのですよ。
昨年の賃上げ率は約4%で今年は約5%だという。そこから0.5%程度を差し引いた数字が中小企業の賃上げ率になるらしいが、いずれにしろ自営の僕に関係がない。勤め人たちの給料はこの2年で10%近く増えているらしい。まったく羨ましい限りだよ。収入は増えていないのにゲームの値段が上がり続けているから、様子見をするタイトルが多くなった。ゲームに限らず、どんな物にも「失敗上等で手を出せる価格」と「絶対に失敗したくない価格」がある。僕にとって1万円は「絶対に失敗したくない価格」だから、余程の期待がなければ予約できない。評判がそこそこ良くても買えない。1万円も出して「そこそこ」は欲しくない。メタスコアならば90以上は欲しいし、Steamレビューならば「非常に好評」以上が欲しい。高望みをしているように思われるかも知れないが、僕にとっての1万円はそれぐらい重い。気持ちが買う方に傾きつつあっても口コミや動画のチェックを繰り返し行い、血眼になって買わない理由を探す。そんなことばかりしていたせいか、今の僕は新しいゲームに接しても、買う理由よりも買わない理由を探す体になってしまった。……と書くのは、これで3度目か4度目だと思う。ちょくちょく思うことだから、何度でも書いてしまうのだ。
余談。タイトルを書きながら思ったんだけど、たかだか金に“お”を付けるのって金の価値を大きく見てるみたいで触るよね。とは言え“金”とだけ言うとそれはそれで品がなくなるから困ったもんだな。
そのために無い知恵を振り絞ったところ「自分一人さえ救えないメッセージには説得力がない」という結論に至りまして、それからは自分ファーストになったのですが、今に至るまで自分を救えていません。日銭を注ぎ込んで刹那の享楽に溺れるという営みを死に至るまで繰り返す生き様が既定路線となっているように思えます。いくら考えても、逃避しか道がないように思えるのですよ。
人が抱く欲求を満たすには、どうしたって他者との比較が避けられないので、優越的な立場を得られない人に対しては(がんばったってダメな人もいると知っているにも関わらず)「がんばろう」としか言いようがありません。この構造を覆すには欲求そのものを書き換える必要があります。具体的には、比較を無用とするパラダイムを構築しなければなりません。しかし、仮にそれができたとしても社会からは受け入れられないと思います。「ナンバーワンにならなくてもオンリーワンで良い」みたいな綺麗事を言う人もいますが、現実を生きる人々はオンリーワンを受け入れられるほどの寛容さなど持ち合わせていません。オンリーワンを排除するのは簡単です。「キモい」と言えば良いのですから。あるいは、仲間外れにすれば良いのですから。あるいは、虐めてしまえば良いのですから。
まあ、そんなこんなでね。社会の側に変化を求めるアプローチには無理があるわけですよ。となればもう、社会から虐げられられないよう隠れて凌ぐしかないでしょうよ。本を読んだり、ゲームをしたり、シコったり、ネットに悪口を書いたり、フィクションに没頭したりしながら、生きていくしかないでしょうよ。それが負け犬にとって最高の生き方であるというのであれば、与太話の一つでも提供して束の間の夢を見せて差し上げるというのが救いの形になると思います。モヤッとするでしょう? 僕はモヤッとしますよ。結局のところ妥協ですからね。
僕たちが人畜無害であり続けることを辞めるという前提を置くのであれば別の話もできるのですが、それを僕のモノローグとして書くと何らかの教唆に問われてしまう可能性があるので具体的なことは書けません。その代わりに、僕の夢を一つ書いておきます。僕の夢は、ガンにでもなって余命宣告をされて失う物が全てなくなった後に、貯金が底をつくまで風俗にでも通ってあらゆる性病をもらった後に、脳に電極を刺してイキ狂いながらくたばることです。ただ、電極のくだりは素人ではどうにもなりませんから、脳科学者の友達を作ることに残りの人生を費やそうと思います。
おちんちんを見せちゃいけないって誰が決めたのさ。おちんちんを見ると不快になると言う人は、お風呂に入るたびに不快になるの? それは後天的に刷り込まれた価値観に過ぎないのに、どうして生得の法みたいに言っちゃえるのさ。僕が残念に思うのは、それを疑問に思わない人が多いことだよ。何を教えても「どうして?」と口にする子供たちの方がずっと賢いと思う。誰にだって、そういう時期はあったはずなのに、どうして疑うことを諦めてしまったんだろうね。どういうわけか、人って大人になると「良くないものは良くありません」みたいなトートロジーを喚く機械になっちゃうんだよ。僕が通っていた小学校の先生も、「どうしてセックスしてはいけないのですか?」という質問に対して「駄目なものは駄目だから」と答えていたよ。大人から「良くないものは良くない」と教わった子供たちが、理由を知ることもなくそれを受け継いでいくさまは、滑稽だし、この上なく頭が悪いと思う。少なくとも僕は、子供がセックスをしてはいけない理由やら、人を殺してはいけない理由を説明できる大人になれたけど、疑うことを諦めてしまった人たちは、僕の学校の先生のように「駄目なものは駄目」と言ってしまうのだろうね。これは言うなれば、馬鹿の再生産だよ。僕はそんな風に思うから、下ネタを嫌う人に遭遇するたび、内心で頭の悪さを疑ってしまう。過去に性被害を受けたなどの理由があるのであれば理解できるんだけど、多くは理由がないからね。
僕はたびたび悟ったかのように「人生なんて、こんなもんだよね」みたいなことを書いてしまうんだけど、これは自分でも格好つけていると思う。内心では「うわぁああああん! たいして良いこともないままおじいちゃんになっちゃう! どうすればいいの?!」みたいなことを思っていても、気づけば「ま、これが人生だよ。こんなものだよ」と書いている。そればかりか「元からダメな人間だったわけではなく、選択的にダメな人間を装っていますよ」とまで書いていたりする。そのような欺瞞に読み手を付き合わせるのは申し訳ないので、この際だから白状しておくが、それらのテキストは読み手ではなく自分に向けて書いている。自分に向けて“受け入れがたい現実を承服させるための説得”をしているさまを、共有しているに過ぎない。もとより、このブログのエントリーの大部分は日記からの切り抜きなのだから、そもそも私的なものなのだ。ブログに書いてあることは「本心へ向けた説得」であって、本心ではない。また、長きにわたり説得を続けているにも関わらず、僕は今に至るまでこの現実を少しも受け入れることができていない。ゆえに、本心であるわけがない。
歯医者での会計時に「診察券がLINEに変わります」と言われたんだけど意味が分からなかった。なんでも、LINEアプリの機能を使ったデジタル診察券というものがあるらしい。しかし僕はLINEを使っていないので何をどうすれば良いかさっぱり分からなかった。仕方がないのでパソコン教室に通う老人のように振る舞って、手取り足取り登録の方法を教えてもらった……のだが、家に戻って確認してみると、物の見事に登録に失敗していた。こんな僕の肩書きがITエンジニアだってんだから凄いだろ? 後期高齢者に片足を突っ込んでいるうちの親でさえも普通にLINEを使っているというのに、インターネッツの最前線で仕事をしてきたはずの僕がこの有様だよ。もちろん、理由はある。SNSをやらない理由と同じだ。僕にとってどうでもいい情報をプッシュして欲しくない。そんなものに時間を費やしたくないし、生活のリズムを乱されたくない。とは言え、使わないというだけならば兎も角、使い方すら知らないとなると問題が生じることもあるようだから、最低限の学習はしようと思った。
個人がLINEに依存するのは勝手にやってろと思うんだけど、社会が私企業に依存するのは不健全だしグロテスクに思える。Googleやら旧TwitterやらFacebookへの依存にしたって同じだ。利益追求と公共性を秤に掛けた時に利益追求を選択するのが私企業というものなのに、そこに生活を託すってのはさすがに無邪気すぎないか? 企業の方針が変わった時にどれほどの混乱が生じるかというのは、Xの運用を見ても分かるだろうよ。Googleにしたって、上手く行かないと見るや否やサービスを無くする。Googleの特定サービスに依存して作られた業務システムが、Googleの方針変更によって使えなくなったなんてのもザラに聞く話だ。生活の全てを特定のプラットフォームに委ねた場合はアカウントが生命線になるのだけれども、そのアカウントを生かすも殺すも企業次第じゃないか。生殺与奪の決定権を私企業なんかに託していいのか? まあ、いいんだろうね。大抵の人が、それを受け入れている。
そもそもの話になるが、みんなインターネットを信用しすぎなんだよな。総務省が対策を急いでいるけれど、現状のインフラでデジタル化を完遂させると、簡単に壊せる国が出来ちゃうよ。こんな状態で首都圏に天変地異でもあろうものなら、あるいは戦争なんかしようものなら、たちまち機能停止に陥ってしまうよ。
昔は仲が良かった人が、ある時期から余所余所しくなって、今では没交渉となっている。忙しいのかなと思っていたのだけれども、どうやら違う……と、睡眠中に気づいた。
夢の中で僕はよう知らん女との昼食を終えて会計をしていた。その女と僕との関係性は分からない。たかだかランチで10万近い金額を請求されたのだが当然持ち合わせなどなく、仕方がないからカードで支払おうとしたところ、カード会社の承認がなかなか下りない。承認が通るわけでも拒絶されるわけでもなく、ただ延々と待たされる。よう知らん女は最初こそ割り勘に応じる素振りを見せていたものの、僕がカードでの支払いを申し出ると、どういうわけか財布をバッグに仕舞った。そもそも店を決めて注文をしたのはそいつだ。昼飯ごときに10万もの金を使うことを何とも思わないような人間とは今後関わり合いになりたくないと思った瞬間に、何が引き金となったのか「あれ、もしかして僕って絶交されてる?」と気づいた。
これを読んだ人には夢と気付きとの関連を理解できないだろうけど、僕にも意味が分からない。
おそらくは「関わり合いになりたくない」という思考からのリンクなのだろう。
そこで僕は夢を打ち切って、絶交について考え始めた。絶交されたということは、つまり、僕が何かをやらかしたということだ。一体何をやらかしたんだ? 思い当たる節が多すぎる。大きな出来事があったわけではなく、大目に見てもらっていた失点が積もり積もって限界に達した結果なのだと思う。共感できないこともない。僕にしたって、僕みたいな奴とは関わり合いになりたくないからな。かと言って正面から絶交すると、それはそれで面倒なことになりそうだから、フェードアウトを選択するのも賢明だ。やるせない気持ちはあるけれど、絶交という判断を支持せざるを得ない。些かの悲しみを抱えることにはなるのだけれども、自業自得なのだからしょうがない。
はっきりと自覚しているが、僕は底意地が悪い。そればかりか、友達たちも底意地が悪い。底意地の悪さを共通項として通じ合っている節さえもある。底意地の悪い人間は、底意地の悪さを補って余り有るメリットを提供することによって世間様と折り合うものなのだけれど、僕はそれを提供していない。損となる関係性を維持させうるのは、血縁関係や、婚姻関係や、親友といった“濃いつながり”に限られる。友達と親友の違いは、信頼の有無だ(私見ではなく、辞書にそうある)。友達関係は信頼を必要としない。信頼を必要としない関係性は利害によって維持されるのだから、メリットを提供できない奴に友達など作れるわけがない。
……とまで書いて、はたと気づいた。この件で僕がショックを受けた本当の理由は、あいつを親友だと思っていたからではないかと。もとより親友ではなかったか、あるいは、信頼を損なってしまったか。いくら底意地が悪いとは言え義理堅さには自信があるんだけどな。一体、僕は何をやらかしたんだ? 無自覚ってのが一番ヤバいよな。
人形を持つことを真剣に検討し始めておりましたから、残念なお知らせでございます。
僕みたいな人は人形を持つことで幸せになれる気がするんですよね。
まあ、一言に人形と言ってもラブドールを選ぶとは限らないのですが。
ラブドールには消耗品的な側面がありますから、長く付き合うには障りがあるのではないかと思います。
一片の婉曲もない直球のタイトルですが、今の気持ちを嘘偽りなく表現するのであれば、こう書いとくしかねーよなと。ええ、ええ、したいんですよ。セックスを。性欲を持て余しています。もちろん、年がら年中こんな感じではありません。普段はシコれば収まる程度にしか思わないのですが、たまに大波が来るですよ。そんなときはどんなにシコっても、欲求が抜けてくれません。四六時中ムラムラしています。しかし、どうしようもないのです。そして、この「どうしようもない」という言葉が今回の本題になります。セックスしたいという表明だけで終わらせるわけにはいきませんからね。
まずは前提としてこれを書きますが、僕はセックスに至るための段取りに困っているわけではありません。これは僕に限った話でもなく、大抵の人は、なりふり構わなければセックスできます。お金を使うも良し、マッチングアプリを使うも良し、土下座をするも良しですよ。単にヤることが目的ならば、様々な方法があるのです。
僕がセックスに至れないのは、偏に自己評価の低さゆえです。僕が女性ならば、僕みたいな奴とはヤリたくありません。お金を払ってさせて頂くとしても、欲求よりも申し訳なさが勝って、その気になれないと思います。こんなメンタリティーの人間にはセックスなんか出来るわけがないのですよ。例外として考えられるのは“モテた場合”ぐらいなんですが、若い時分でさえ厳しかったのですから、今となっては尚更に、そんなものは望むべくもありません。
というわけで、どうしようもないのです。
セックスに限らず、この世界には「したいのに、できないもの」や「欲しいのに、手に入らないもの」が多すぎるように思うんですよ。そんなものはいっそのこと、はなっから存在しない方が生きやすかろうと思うんですけどね。手の届かない事物など、惨めな気持ちにさせてくれるばかりで、クソの役にも立ちませんもの。そうした事物の存在から無理矢理にでも意味を見出すとしたら、“僕を惨めな気持ちにさせるためにある”といった感じになるんでしょうかね。なんてクソッタレな世界なんでしょう。すぐにでも滅んでしまえばいいのに。