僕の中には狂人がいる。


幼い頃は狂人を前面に出して暮らしていたのだけれども、10歳で死にたいと訴えるガキに対応できる大人などいなかった。そうしているうちに、誰も自分の状況を救えないことや、周囲を酷く困らせる結果にしかならないことを理解した。だから、表現を抑えた。何も良くはなっていないのだけれども、表に出しさえしなければ周りが困ることはない。その生き方は、おっさんになった今も変わっていない。本心を言葉にしようとすると生き死にの話をしてしまいそうになるが、僕は長年の経験から、その手の話題が聞き手のギアを切り替えてしまうことを知っている。それはもう、とても分かりやすく変わるものだから、自分に対し「あ、コイツはヤベえ奴だ」とレッテルが貼られる瞬間が分かる。その手のコミュニケーションの失敗を十代の頃に散々やらかしたおかげで、二十歳になる前には言葉を発するよりも先にリアクションを想像できるようになっていた。僕が平熱で語る生き死にの話が、普通の人には重たいらしい。ここで使った「平熱」という言葉には「素面の僕が、日常的に、当たり前のように考えていること」という意味を込めているのだけれども、そこが全く理解されない。まるで重大な告白でもされているかのように受け止められてしまう。ときには「まさに、これから命を絶つ気ではないか」と思われてしまったりもする。小学生の頃から死にたがっていた人間が、この期に及んで死んだりなんかせんのにな(逆にね)。僕は既に、自分を生かすための理論を持っているし、生きる理由も分かっているし、死ねない事情も抱えてる。目の前に死にたいという人がいるなら、説得を試みさえもする。自分で言うのも何だけど、本心を語りさえしなければ、極めて真っ当な人なのさ。願わくば、誰からも心配されることなく「死にたい」と言いたいのだけど、難しそうだ。誰もが希死に関する話を腫れ物のように思ってしまってる。もしかすると皆の心の中にも多かれ少なかれ希死念慮はあって、そこから目を背けたがっているからなのかも知れないね。目を背けることができるのであれば、そうするに越したことはない。僕はそんな人たちの邪魔をしたくないから、やはり、大っぴらには語らない方が良いのだと思う。たぶん、これが分別ってやつなんだ。分別を持たない頃には、壊れた心を隠そうともせず裸で書き殴り続けて、人様に迷惑を掛けていたけど、それが許されるのは十代までだよ。成人してからもそれを続けると、単に痛いというだけじゃなく、社会的にも生きていけないからな。大人というものになったなら、なけなしの社会性で誤魔化しながら、なんとかやっていくしかないのだ。

という文章を、割と気を付けながら書いたのだけど、客観的に評価をするとこんなものでも「危うい人」の分類に入ってしまうと思う。だから、これまでの僕の判断基準のもとではブログに載せることもなかったのだけど、最近になってようやく「ほぼ誰も読んでいない」という判断ができたのでフィルターを緩めることにした。ある人が「著名でもない人の自分語りは無価値」と言っていたけれど、無価値と見做されるようになってようやく書けるようになることもあるんだよ。

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