誰もが、特定の事柄に関しては他の誰よりも詳しかったりする。たとえば、僕が飼っていた猫について、僕よりも詳しい人間など居ないだろう。ゆえに、僕の猫が世間様から何らかの誤解を受けることがあれば、直ちに誤解だと分かってしまう。ここでは例として猫を挙げているが、僕は他にもそこそこの数の出来事には誰よりも詳しい。世間様は僕の猫など少しも気にしないだろうが、僕が良く知る事物の中には世間に語られるものもある。だから、出鱈目を言う人が分かってしまう。尤もらしく嘘を吐く人だとか、それを信じる阿呆を見抜けてしまう。人を見下したくないというのは本当だけど、一分の疑問も差し挟まずに間違ったものを信じ込んでしまうような手合いなんて、どうしたって見下してしまうんだよ。お陰様で、自分でも呆れるほどの大勢を見下すことになってしまった。僕は、疑問を抱かない人を軽蔑する。人の心の中には善も悪も同じように巣くっているのに、清濁を併せた理解に努めることもなく「白か黒か」と単純化したがる奴は頭が悪いと思う。分からないものを分からないと認めず、その狭い見識の裡にある有り合わせの材料のみを使って全てを語ろうとする奴も頭が悪いと思う。方眼紙の点と点を繋いでいけばどのような絵でも描けるだろうが、そうやって描いたものを掲げて「これが真実である」と宣う奴も頭が悪いと思う。共通する要素は「安直」だ。単純さを求め、単純化に励み、たとえそこに誤りがあっても単純であれば受け入れてしまう。まるで、ドロドロになるまで咀嚼しなければ物事を飲み込むことができない乳児のような大人ばかりだ。そんな連中を見るのがしんどくて、僕はあまりネットをやらなくなった。僕よりも無邪気な人たちは馬鹿を踊らせて遊んでいるけど、僕はそこまで吹っ切れないよ。他人からどう思われるかは知らんけど、僕は、僕なりに善良だからね。