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僕も人のこと言えねえんだけどさ。


僕の知り合いでも歳とっていきなり大賢者にでもなったかのような振る舞いをはじめる奴が増えとる。

なかには度が過ぎて「あいつは狂人になった」みたいなことを言われちゃってる奴もいる。

なんだかなあと思いながら自分の言動を振り返ってみると、どうやら僕にもその節がある。

ただ歳とっただけなのに、この世の全てを知り尽くしたかの如く偉そうなことを宣ってしまう。

そういう病気でもあんのかな。

おそらくだけど、僕らは歳をとって賢くなったのではなく、逆に知的謙虚さを失っている。

柔軟に物事と対峙することができなくなった自分を、有り物の知識だとか正論を使って誤魔化している。

間違いを指摘されることを恐れて、誰もが正しいと知っていることを、あえて正しいと言いたがってしまう。

たとえば僕が「うんこを食べてはいけません」と言ったとするわな。

そりゃそうだと誰もが思うだろうけど、そんなもん、あえて耳を貸すような話じゃないだろ?

反論を恐れるおっさんが、「あんたは正しい」の言葉欲しさに、誰にも新しい知見をもたらさない主張を繰り出しているだけのこと。

たとえ間違っていても「うんこは食べ物」とでも言っとく方が、まだ面白くなりうるし建設的だとは思わないか?

賢者ぶろうとしてる奴なんかよりも、間違ったことを言って怒られて反省できる人の方が知的だと思う。

自分が完成された存在であると信じたり誇ったりする奴は、例外なく頭が悪いとも思う。

せめて、いい歳こいても知らないことが山ほどあるってことぐらいは認められるようでなきゃ話にならんよ。

無知を晒せる余裕を持っていたいものだね。

間接自殺をしようって奴は自分の命と同じぐらいに他人の命を軽視してんのよ。


だから実効性のある説得の文句は「自分の命を大切にしろ」であって、「お前が死ぬのは構わないが他人を巻き込むな」ではないわけ。

止めるべきは、「他人の命を奪うこと」ではなく、「自分の命を捨てること」の方。

間接自殺という言葉の通り、動機は自殺なのだから、自殺を止めさえすれば誰も巻き込まれない。

「一人で死ね」は禁句だと思う。それは「お前なんか消えていい」と伝えているに等しい。

自殺者当人が他者に対し「お前なんか消えていい」と思った結果が間接自殺となっていることを分かっていたら、そんなこと言えないと思うんだけどな。

間接自殺者と似通った思考をもって間接自殺者を責めるのは、どうかしていると僕は思うよ。

バッドエンドルートに突入している人に限定して訊きたいんだけど、


これから何年あるいは何十年と続くかも知れないロスタイムは、どう過ごすのが正解だと思う?

つまんない。


僕が磨り減っているせいだろうけど、のめり込めると言えるほどの物はない。

【DUNGEON ENCOUNTERS】

石化が最低。

【Age of Empires IV】

画面が狭い。

【零 ~濡鴉ノ巫女~(PC)】

ちゃんと作れよ。

【Metroid Dread】

こういうのでいい。

【おすそわける メイド イン ワリオ】

新しいことをやろうとしているのは分かるんだけど、代償の方がでかいと思う。

39度2分。


2度目のワクチン。死ぬかと思った。

【おたより】緋色なんとか。


緋色梵鐘ってどうなったんですか?

そりゃもう、お金次第ですよ。

と、いつまでも言ってられんので、いつか諦めてノベルにするかも知れません。

地道にお金を貯めていたんですが、ペース的に還暦まで掛かりそうですし、これまでの蓄えにしてもコロナ禍で減りだしております。

ただでさえ需要の見込めない作品に「おじいちゃんが作った」という箔まで乗せるわけにはいかんので、どっかで見切りをしないとね。

僕の中にあった当初のプランは、長く寝かせているうちに全くの別物になりました。

緋色梵鐘というタイトルもなくなりました。

仮題を決める際には語感で「梵鐘」を入れたんですが、蒼色輪廻のベースは南伝仏教ですから「梵鐘」では障りがありまして。

「コロナ”禍”」っす

ご親切にどうも。

人の悲しみを願うなよ。


ただでさえ人は長く生きるほど死別の悲しみにまみれていくというのに、「自分が死んだら悲しんで欲しい」なんてことを願っちまうやつは趣味が悪いよ。

だいたい、死ぬことで人を悲しませるなんてのは普通すぎる。言葉は悪いが芸がない。どこの馬の骨であれ死ねば誰かは悲しむか、悲しむフリをしてくれるものなんだよ。所詮は死んで悲しまれる程度の人物だったとしか評価できないね。

真に優しく優秀であるなら、生きて学んだ全てをぶつけて皆を悲しみから逃がしてやろうよ。

「泣かせるよりも笑わせる方が難しい」ってのは、こういうことを言うんだ。

長いこと考えてきた難題の答えを夢で見た。


自分に敗北した感がある。

下手に頭を使うよりも寝てる方がマシということか。

婚活って自分でない者を装って上手くいくもんなの?


いっとき上手くいったって、その後めちゃくちゃ疲れそう。

僕は最高にダサいうえに不潔だけれども、この気楽さを捨ててまで結婚したいとは思わない。

シコりたい時にシコりたい格好でシコれなくなるなんて幸せじゃないでしょ?

「親ガチャ」という言葉が流行ってるそうで。


僕らからすれば何を今さらという感じですが、親ガチャを否定する人が炙り出されるのは見ていて面白いです。

生まれの異なる二者が同じ地位を得るために必要とする努力の質や時間が異なるのであれば、そこには格差があると言えます。

格差は努力で埋まるとは言いますが、僕が問題視しているのは「必要とされる努力の差」です。

努力とは、その気にさえなれば誰もがノーコストで手に入れられるリソースなどではありません。

辞書で努力という言葉を引くと「心身を労してつとめること」とあるはずです。それは「命を削る行い」なんです。

「命を削らずに得る人」と「命を削って得る人」が平等であるとはとても思えません。

親の金で学校に行ける子と、身体を売って学費を稼ぐ子を並べて、「結果的にはどちらも学校へ行けているのだから問題ない」とは言える気がしません。

現代の科学において生まれ持つ資質は均せませんが、幸いにも貧富の差に限っては、ある程度なら政治で均すことができます。

世の中から貧富の差を無くすことなんてどだい無理でしょうけど、せめて子供たちには不自由なく教育を受けさせてあげた方が良いと思いますよ。

それができないのは大人の恥ですからね。

あっさい理解ですけど、親ガチャって昔でいう運命論なんですかね?

究極的には堕胎された赤ちゃんとかはハズレ引いたとしか言えないわけで、まぁガチャですよね

運命の一言で片付けられてしまうのは、今も昔も変わらんと思いますよ。

僕が野蛮だと思うのは、運命を受け入れろという圧を看過することです。

人は生まれ持った道具でしか戦えませんが、その道具の違いは努力の差から生じるものではありません。

であるにも関わらず、生得の能力を自ら勝ち取った物であるかのように振るう人や、それをもって他者を見下す人には、些か品がないように思います。

多少の能力を持つことよりも、「自分は偶々出来る側の者として生まれたに過ぎない」という自覚を持つことの方が大切だと思うんですけどね、僕は。