「親ガチャ」という言葉が流行ってるそうで。


僕らからすれば何を今さらという感じですが、親ガチャを否定する人が炙り出されるのは見ていて面白いです。

生まれの異なる二者が同じ地位を得るために必要とする努力の質や時間が異なるのであれば、そこには格差があると言えます。

格差は努力で埋まるとは言いますが、僕が問題視しているのは「必要とされる努力の差」です。

努力とは、その気にさえなれば誰もがノーコストで手に入れられるリソースなどではありません。

辞書で努力という言葉を引くと「心身を労してつとめること」とあるはずです。それは「命を削る行い」なんです。

「命を削らずに得る人」と「命を削って得る人」が平等であるとはとても思えません。

親の金で学校に行ける子と、身体を売って学費を稼ぐ子を並べて、「結果的にはどちらも学校へ行けているのだから問題ない」とは言える気がしません。

現代の科学において生まれ持つ資質は均せませんが、幸いにも貧富の差に限っては、ある程度なら政治で均すことができます。

世の中から貧富の差を無くすことなんてどだい無理でしょうけど、せめて子供たちには不自由なく教育を受けさせてあげた方が良いと思いますよ。

それができないのは大人の恥ですからね。

あっさい理解ですけど、親ガチャって昔でいう運命論なんですかね?

究極的には堕胎された赤ちゃんとかはハズレ引いたとしか言えないわけで、まぁガチャですよね

運命の一言で片付けられてしまうのは、今も昔も変わらんと思いますよ。

僕が野蛮だと思うのは、運命を受け入れろという圧を看過することです。

人は生まれ持った道具でしか戦えませんが、その道具の違いは努力の差から生じるものではありません。

であるにも関わらず、生得の能力を自ら勝ち取った物であるかのように振るう人や、それをもって他者を見下す人には、些か品がないように思います。

多少の能力を持つことよりも、「自分は偶々出来る側の者として生まれたに過ぎない」という自覚を持つことの方が大切だと思うんですけどね、僕は。

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