惨めな思いはする側ではなくさせる側が悪い。


何かにつけマウントを取ろうとするメンタリティーが世界に不幸を撒き散らしてるんだよ。たとえば、小市民の精一杯の贅沢を鼻で笑うような輩共がな。御馳走を口にして「こんなに美味しいもの生まれて初めて」と感動している人に向かって「そんなもので喜ぶなんて舌が貧しいね。世界にはもっと美味しいものが沢山あるよ」と言っちゃうような輩共だよ。マイルドヤンキーや肉体労働者を馬鹿にする奴も同じだな。そいつらが言いたいことなんて、要するに「俺を見上げろ」だ。ただ、それだけを言いたがっている。他者に惨めな思いをさせたがる奴は、場合によっちゃ人殺しよりもタチの悪い存在になり得ると思う。殺されちまえばそれで終わりだが、見下される人は見下されたまま生きていかなきゃならねえからな。この世の中には人を馬鹿にする言葉を正当化する時に用いる二の句のようなものある。「その悔しさをバネにして這い上がれば良い」みたいなやつだ。これ、もっともだと思うだろ? もしそう思うのであれば、あなたは既に“そいつらを勝たせるルール”に乗っかっている。クズと同じ価値を共有しながら成り上がったところで、ランクの高いクズにしかなれんと思うがな。誰もが、それぞれの視野の中で、より良く生きていけたらいいのにな。手の届く範囲でいちばん美味しいものを、世界でいちばん美味しいものだと確信したまま死ねたらいいのに。ネット越しに手に入る情報たちが、幸福を希薄にさせちまうんだ。「あなたが幸福だと思ってるそれ、偽物ですから」と抜かしてくるんだ。そうした言葉が飛び交う中に身を浸していると、実存が朧気になっていく。あなたを幸せにできるはずだったものが、ちょっとずつ透明になっていく。見えなくなるだけならまだ良いさ。こじれると、嫌いになるんだよ。好んでいたものを馬鹿にされた挙げ句、「あれを良いものだと思っていた自分が恥ずかしい」と思うようになり、ついには自分でも馬鹿にするようになるんだ。惨めさをばら撒く側への仲間入りだよ。自分が無いってのは、それを言うんだろうな。とにかく、“好き”を手放すなよ。何を言われようとも大切にしておけよ。手放すと“好き”は黒歴史へと変わり、心には洞ろが生じてしまう。……と、かつての自分に言ってやりたい。

【解説】

卑怯な書き方をしているので、それについて説明を加えます。

……と、かつての自分に言ってやりたい。

これは、誰かを批難しながらも内省という体にしてお茶を濁したいときに僕が使いがちな小細工です。

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