死んだら無に帰せるとかいう考えは一つの願望に過ぎないということを大抵の人は分かっていないと思う。


そりゃ僕だって死んだ後には無があって欲しいと思うんだけど、シミュレーション仮説を採用する場合は「あの世」を否定できなくなっちゃうんだよね。シミュレーション仮説には反証可能性がないから、眉唾であっても「ない」とは言えない。あるかも知れない。残念ながら死後に見る景色を語れる生者などいないから、答えは不可知の領域にある。天国やら地獄やらを想定して、天国へ行くための切符を売るのを商売にしている人もいるけれど、あれは不可知の悪用だと思う。実際のところ、不可知と向き合う手段は限られている。たとえば貴方が密室に閉じ込められていると仮定して、その部屋には固く閉ざされた扉が一つだけあるとする。扉には貼り紙がしてあって、そこには「この扉はいつか自動的に開きます。扉の向こうには楽園があるかも知れません。あるいは怪物が飛び出してくるかも知れませんし、何もないかも知れません」と書かれているとする。実際には何が待ち受けているのか分からないし、知る術もない。そのような状況において僕たちが懸念すべきものは、「楽園」や「無」ではなく「怪物」なんだよね。「楽園」やら「無」に対しては、備えをする必要がないわけだから。つまり、不可知と向き合うためには、最悪への備えをしなければならないってことだよ。天国へ行くための徳を積むのではなく、地獄へ行くことを前提として準備をするのが正解なんだよ。不可知に対応しようとすると、物の見え方が変わっちゃうんだ。僕らが地獄で何を想うかを考えると、生きているうちに思いを馳せるものを残しておくことが重要になってくる。この世界に残された人々が故人を偲ぶ以上に、故人の側が残された人々を偲ぶことこそがより重要になる。生前の世界にいかに爪痕を残すかもまた重要だし、それを実現するための強力な手段として子作りがあることも分かってくる。思い出も武器になるから、今が楽しければ良いという生き方も悪くない。音楽も沢山聴けばいい。頭の中で鳴らせる音が多ければ多いほど地獄は快適になる。逆に全く意味がないのは、思索の糧にならない情報の消費を娯楽として生きてしまうことだろう。ゴシップなんか、まるで使い道がないからね。死後のことまで考えるならば、日常的に触れる情報の質には注意を払うべきだと思うよ。このような考え方は非科学的であっても、非科学的なりに筋が通っていると自分では思う。だから僕はそう簡単に死ねない。百年足らずの時間など、不可知に備えるには短すぎるくらいだ。死んだ先には無があると信じて、何の準備もなく向こう側に飛び込める人々の潔さには感心するけれど、正直なところ蛮勇に思える。考えうる最悪の状況よりも、この世界が少しだけマシである限り、そんなギャンブルはしたくない。

考えうる最悪に備えるには、痛みや苦しみに立ち向かうすべを学ばなけばならない。自分を喜ばせるために必要な道具を得ておかなくてはならない。この世界にいるうちに、この世界にあるものから、生き抜くために必要な知識を可能な限り吸収しておかなければならない。次の世界での境遇が、最悪の業苦だろうが、最悪の孤独だろうが、少なくともこの世界にいるうちは、最悪にまでは至らない。友達と呼べる者はいなくとも、他人がいるだけマシだろう。他人と上手くやれば縁(よすが)を作れるし、逆に嫌えば孤独に馴染める。それができるのは、この世界に、たまたま他人が存在しているからであって、次の世界も同じとは限らない。誰かに気持ち良くしてもらえるのも、不快な思いをさせられるのも、この世界にいるうちだけかも知れない。完全な孤独に身を沈めることになれば、不快な感情すら懐かしく思える時がくるのかも知れない。いつか、外的な要因から生じる感動の全てが貴重に思える時が来るのであれば、この世界から得られる感動は見境なく得ておくべきだろう。このような考え方を突き詰めていくと、全てに感謝する変態が仕上がる。そう、目指すところは変態なのだ。万物に感謝できる変態だけが、次の世界を上手に泳ぐと思う。

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