京王線ジョーカー君。


なんでも京王線ジョーカー君は小学生の頃からイジメを受けていて「自分はゴキブリのような汚い存在だ」と考えるようになったんだってな。二十歳を過ぎて長年交際していた婚約者から捨てられるに至り、将来に絶望して死ぬ気になったんだそうだよ。だけど一人では上手に死ねなかったから、死刑になるような罪を犯して処刑して貰おうと思ったんだってさ。……本人曰くね。そんな彼に対し世間の皆様は「死刑になりたきゃ一人で死ね」みたいな温かい言葉を投げ掛けているようだけど、既に檻の中にいる人に向かってそれを言ってみたところで意味がないから、気晴らしで言ってるだけだと思う。このような事件をなくするために必要なのは、紋切り型のお説教や非難ではなく、拡大自殺のインセンティブをなくすることだ。「一人で死ぬ方がまし」と思えるような罰を設定するしかないよ。凌遅刑あたりが良いんじゃないか? ……というのはもちろん冗談として、そろそろ皆さんも独力で自己肯定感とかいう不思議なパワーを得ようと足掻くのを辞めちまった方がいいんじゃないすかね。そいつを得るための最短コースは、肯定してくれる他者を見つけることなんですよ。一歩ずつ前へ進もうとしながらも、本当に進めているのか不安な自分に、ちょっとでも前進していることを教えてくれる人がいれば足りるんですよ。……と書くのはとっても簡単だし、読むのも簡単だし、理解するのも簡単なんだけど、実際にそれをやるのは難易度が高いと思うでしょう? 問題点はそこなんですが、僕にもどうすりゃ良いかなんて分かりませんよ。いい加減なことを書いてごめんなさいね。

僕は昔「インターネットは人々を孤独から解放してくれるかも知れない」と思って色んなことをやってみたのだけれども、何をしても思うようにいかなかったんですよ。そんなことを何年もやっているうちに「僕は人の孤独をより深めることに荷担してしまっているのではないか」と考えるようになってしまった。黎明期には多少の手応えを感じることもあったのだけれど、束の間の集合知も集合痴に置き換わってしまった。ネットの利用者をどうこう言うつもりはない。どちらかと言えば、現在のネットの状況にこそ人の本質が表れているのだと思う。偏に、僕の見込みが甘かったってことだね。今は、何もかもが見えすぎる。自分と比較できる他者が見えすぎる。羨ましく思えるものが見えすぎて、見下せる者が見えすぎて、自分を見下す者もまた見えすぎる。「小さな幸せを噛みしめなさい」と真っ当なことを言う人がいる一方で、その幸せを笑う者が見えすぎる。散財を見せびらかす大人たちがいて、それを見て喜ぶ子供たちがいる。僕はこのような有様を「まるで地獄のようだ」と思うのだけれど、嘆いてみたってしょうがない。これを普通と見做さなければ、建設的な思考などできないのだから。インターネットなんかなくしちゃえと言ってみたところで、なくなるわけがないもんな。比較できる他者が見えすぎる社会では自己評価を上げるのが難しい。いかんせん上が見えすぎるから、それなりの能力を持つ人であっても惨めな気持ちになりやすい。これは構造の問題だから、「努力しろ、上を目指せ」と綺麗事を抜かしたって解決しない。誰が何位に繰り上がろうとも下位50%の頭数は変わらんし、100人中100位にいた奴が死ぬほど努力をして80位まで上がったところで、馬鹿にされるのは変わらない。「20位あがったぶんの幸せを噛みしめなさい」と言う人もいるけど、その幸せを噛みしめるためには前提とすべき環境がある。それは「彼の幸せを馬鹿にしない社会」だ。……と言っても、これもまたインターネットをなくせと言うのと同じで、到底実現できそうにない。人は人を馬鹿にしたがる獣だからね。実践が可能な唯一の策と言えば、目を瞑りながら生きることだろうけど、それをするのもきっと難しい。僕はSNSをやらずにゲームをしながら暮らすことによって薄目ぐらいにはできているけれど、それでも余計なものを沢山見てしまう。参るよほんと。

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