自分さえも変えられない僕らが他人に変化を望むのか?


世界はとても大切なことを踏み外しているのかも知れないけれど、それが正されることはない。

人は、これまでも、これからも、間違いを犯し続けるだろう。

君らは良く人に謝罪を求める。

そして謝罪を求められた者は、謝罪を避けることにより生じる不利益から逃れるために頭を下げる。

それで大勢は溜飲を下げるだろうが、そこに反省の情はない。しかし、それで良しとしてしまう。

人はそう易々と変われるものではないということを、誰もが知っている。

自分にできないことを他者に求めてしまっていることを、心の片隅で自覚している。

だから、茶番で片付けてしまう。謝罪を儀式で終わらせてしまう。

これは嘆きでも非難でもない。ただ、当たり前を述べているだけだ。

真に反省が生まれるのは「事故的にやらかした場合」や「直接やらかしていない場合(部下や近親者がやらかした場合)」に限られる。

事故的にやらかした人や、直接やらかしていない人は、その行いが本意ではないことを自覚しているため、心から謝罪をすることができる。

逆に、ある行いが「やらかし」であることを知りながら自由意志でそれを行った人は、たとえ涙や鼻水を垂れ流しながら土下座をしようとも、内心では謝罪をしていない。ただ、損を避けるために謝っている。

心からの謝罪にはどうしたって共感が要るのだけれど、共感なんて、そう簡単に身につくようなものではないのだから、やらかした当人が、やらかした直後に、心から謝れるわけがない。

でも、形だけ謝るという儀式って、悪いものではないんだよ。

心から謝罪していないことぐらい、みんな分かった上で、謝罪という儀式を落とし所として活用しているに過ぎないのだから。

人は何かと反省を求めるけれど、言われて反省できる人などそういない。

現実には「形ばかりの反省」という儀式が方々で繰り広げられているけれど、それもまた悪いものではない。

真に求められているのは反省ではなく、「やらかしに対するピリオド」なのだから、目的は達成できている。

謝罪だとか反省に、心はいらない。それは形だけで機能する。

そもそも心からの反省やら謝罪を行える人など滅多にいない上、他者の内心を覗くことができない以上、形以外のものなど求めようがない。

いかに謝ろうが反省しようが、人はそう易々と変われやしない。

……と書くと誤解されてしまいそうだけど、人間を否定をしているわけではないのだ。人間なんて、元来、そのようなものなのだから。

ヒトは、その知性により他の動物からは一線を画すとされているけれど、大抵の場合において、その知性なるものは、動物的な欲求を満たすために用いられる。

結局のところ、庶民から政治家の先生に至るまで、等しく動物に過ぎないという前提を無視している人が多すぎるように思う。

「知性も、美貌も、財産も、学歴も、結局のところお前等はおめこのために使ってんじゃねえか。そのことを忘れたとは言わせねえぞコラ」と思うのだ。

誰もが卑しい。それでいいじゃないか。その卑しさを受け入れることでしか、僕らはヒトを愛せないだろうし、怒りを手放せないだろう。

(すんごく分かりやすく言うならば、人類に対するストライクゾーンを広げていこうってことだよ)

……と、いうことを僕は10年ほど前にある人から教わったのだけど、当時は理解できなかった。それが、だんだん分かるようになってきた。

理解に10年もの時間を要したのは、僕もまた易々と変わることができない人間だからなのだろう。

ゆえに、僕はこのようなエントリーを書いても早急な理解だとか変化なんかは求めない。

10年ぐらい経ってから腑に落ちる人がいれば良いかなぐらいに思っているし、その頃にはもう、このようなことを書いたことさえ忘れているのだと思う。

そういうことって、いっぱいあるんだよ。直ちに解決できない事柄は多い。見えているのに歩けない道だとか、時間を掛けなきゃ渡れない橋がある。

「時間を掛ければ解決するよ」と言ってみたところで、今を苦しんでいる人からすると何の慰めにもならないだろうさ。

だから、老人の言葉は若者に届かないんだ。

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