人様を害してはいけないというルールは、害されたくない者同士が互いの身の安全を担保するために結ぶお約束から生じているものですから、害されることを拒まない人や、害されることが確定している人、いわゆる無敵の人ってやつには、あまり有効じゃないんですよ。
なんなら人一人を死へと追い詰めた時点で社会の側が先にルールを破っているとも言えてしまうので、そのような場合において少なくとも僕は人殺しを「問答無用の悪」とは断定しません。「社会が殺してくるのであれば、逆に殺しても良いはずだ」という主張には、「社会の害意」なるものが事実として認められる限りにおいて正当性があると思います。
無敵の人による凶行を止めるには「その道徳を以て踏み留まれ」と言うか、鎖で繋いでおくか、やらかす前に殺すしかないと思うのですが、人一人が追い詰められる過程において道徳には失望させられるのでしょうから、道徳には頼り切れません。かといって「危険な感じがする」とかいう理由で繋いだり殺したりするのは人権侵害ですから、セーフティーネットの拡充あたりで手を打っておくしかないんですよ。
つまりですね、いわゆる社会保障というのは、強者の盾として機能するものなのです。「なぜ税金で弱者を養ってやらねばならぬのだ」とブチ切れる蒙昧もおりますが、その「なぜ」には「おまえを刺す奴を減らすためにだよバカ」という明確な答えがあります。
自己責任論で弱者を切り捨てた果てに、その弱者が生存を脅かされるまでに困窮するようであれば、たとえその弱者が盗みを働こうと、強者を刺しに行こうとも、少なくとも僕は非難しませんよ。自己責任という言葉は弱者に対し用いられがちですが、強者にだって当然あるんです。弱者の不満を抑えることができずに刺されてしまうのは、強者のしくじりなんですよ。
と、剣呑なお話をしてしまいました。時節的に山上君のことを書いていると思われてしまうかも知れませんが、あれはまた別の話です。山上君は命を投げ出す覚悟を持っていたので無敵の人には当て嵌まるのでしょうが、彼は生存を脅かされたわけではありません。供述や手紙やブログコメントやツイート通りの動機であるなら、私的な復讐か、あるいは、日本では認められていない抵抗権の行使に近いんじゃないすかね。
統一教会を21世紀までのさばらせた責任は老害共にあります。30年前の統一教会バッシングの頃の僕はまだクソガキでしたが、そんな僕でも責任を感じているので、老害共は僕よりも感じるべきです。それができないというのであれば、あまりにも耄碌が過ぎており若者にとって害でしかないので死んだ方が良いと思います。行政の中にあってカルトを護っている人々もそうです。もし自らの行いに疑問を抱くことがないのだとすれば、心根から畜生に成り果てているので死んだ方が良いと思います。「死んだ方が良い」は言い過ぎですかね? この軽口に嫌悪感を抱ける程度の倫理観を持つ人ならば、統一教会に対しても毅然とした態度を示せるはずですよ。