自分にとって都合の良い物語をファクトとして選び取るような生き方は、たとえ結果的にそれが正しかったとしても、どうしようもなくアホなのよ。
だからといって、それを言ってみたところで、世の中からアホが減ることはないのよ。
人という生き物は事実よりも自分にとって都合の良い物語を選ぶようにできているものだから。
事実というものは微分的に把握することしかできないんだけど、多くの人は自分にとって都合の良い接線しか見ない。
象という生物を知らない人が、象の一部に触れたことのある盲人たちの言葉から、象という生物の実像を正しく想像するためには、可能な限り多くの盲人から情報を集めなければならない。
(いわゆる「群盲象を評す」ってやつだよ)
そして、象に触れたことのある全ての盲人から情報を集めることができたとしても、おそらく僕らは象という生物を正しく想像することができない。
事実って、あんがい難しいのだ。
僕らがアホな生き方から脱却するためには「自分はいまだに解っていないのだろう」と自分を疑いながら生きていかなければならないんだけど、そのような思考を持てる人はそんなにいない。
自分にとって都合の良い物語を取り入れながら生きる方がラクだし、大抵の場合において困らないからね。
物語の作者に支配されやすくはなってしまうけど、その物語がよほどキチガイじみた代物でもない限り、やはり困ることは少ないと思う。
困らないどころか、救われてしまうのだと思う。
他人様を傷付けない限り、悪いことなどないのかも知れない。
僕がそうした物語に乗りたがらないのは、それが正しいかどうかという以前に、おそらく好みの問題だろうね。
踊らされるのが嫌いだし、踊ってる奴を見るのも嫌いだし、踊らされているという自覚すら持てない奴とは関わりたくない。